「ミシチェンコの八日間」 をつづける。 同中将とその兵団は、十一日夜、牛荘城の南方付近に宿営した。襲撃目標は、海城、牛荘、営口であり、この夜、中国人のスパイによる報告で、日本軍の状況をあらかたつかんだ。 「牛荘城には三百、海城には四千五百、営口には二千の日本兵がいる」 ということであった。 「その兵は、後備の老兵と軍夫
(輜重輸卒) ばかりです」 という報告も得た。 ミシチェンコはこの夜、曾家屯
という村の大百姓の家に泊った。彼はその宿所の土間に各級団隊長を集め、敵情を検討した。 「アキヤマは、来ないようだな」 と、会議の席上、ミシチェンコは地図から目をあげず、つぶやいた。ミシチェンコは自分と対抗できる日本軍の騎兵の親玉が秋山好古であることを知っていたし、さらにはかつて好古がシベリアにおけるロシア軍の大演習を見学した時、好古を連隊の兵舎にむかえて歓待した騎兵将校もこの席に数人いる。 「アキヤマは、沙河の対岸で釘付けになっているのでしょう」 と、ホラノフという一見学者風の風貌を持った大佐が、地図の一点を指して言った。 彼らが日本騎兵が、自分たちコサックの大集団に対して手も足も出ないということを知っており、むしろ同情するだけの余裕を持っていた。 「しかし、小部隊は、このあたりに散らばらせているらしい」 と、サムソノフ少将は言った。その横で、アブラモフ少将が、 「われわれの餌食えじき
になるだけさ」 と、笑った。ついでながら、クロパトキンのまわりの高級将校は日本軍に対して多分に恐怖心理を持っていたが、これに対しミシチェンコ麾下の騎兵将校にはそういう傾きがまったくなかった。兵種としての伝統と実力が日本騎兵より優越していると思っていたからであろう。 やがて部署が決まった。 「ホラノフ大佐はその集成支隊を率い、済南府、前柳樹溝を経て営口停車場を攻撃すべし」 ほか、五つの縦隊が編成され、それぞれ攻撃目的が決められた。 シュワロフ大佐の縦隊は大石橋─営口間の鉄道破壊が役目である。テレショフ少将の縦隊はその援護にまわり、ストヤノフ少将のそれは牛家屯方面に開進して付近の日本軍を蹴散らし、サムソノフ少将の縦隊は遊撃的な役割。 アブラモフ少将の縦隊はミシチェンコ自身が予備隊としてにぎる。スゥエシニコフ大佐の縦隊は輜重隊となり、予備隊と連絡を緊密にする、というものであった。 一月十二日朝からいっせいに行動を開始し、日本軍の後方においてある縦隊は突風になり、ある縦隊は旋風になり、ある縦隊は火の雨を降らせるようにして大荒れに荒れるにいたる。
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