余談ながら、この黒溝台戦がすんだのち、好古が、松川敏胤と馬を並べて騎行したことがある。 松川は士官学校第五期生の大佐で、好古より二期後輩であった。作戦能力は秀抜とされており、児玉源太郎が総参謀長として渡満するときも、 「松川さえ連れてゆけば大丈夫だ」 と見込んだほどの人物であった。が、結局は秀才にすぎず、児玉の天賦の才質とは異質のものだったという評価もある。 松川が参謀畑に進んだにひきかえ、好古は初期の陸軍大学校の卒業生にしては異例といえるほどに部隊勤務のみで終始した。理由は、日本陸軍が好古をして騎兵の育成と指揮をさせる必要を認めつづけたからだが、そのことはここでの課題ではない。黒溝台におけるほとんど敗戦ともいうべき悽惨な戦いの原因をっつくったのは、 (総司令部の作戦能力にあるのではないか) と、好古は考えている。ただこの男はそのようには生涯ついにひとに語ったことがなく、 「私は黒溝台では負けた。しかし一歩も逃げなかったために、結果としては勝ったかたちになっている」 といったことがあるのみである。 黒溝台の戦いの序幕ともいうべきミシチェンコの大襲撃についても、その予報を好古はさんざん総司令部に送っていた。それらの材料および意見は、その後のロシア軍の動きをほとんど的確に言い当てていることから見ても、好古はひとことだけ苦情を松川に言いたかった。 二人は騎行している。 その背後を、永沼秀文中佐がおなじく騎行している。永沼が、先行の二人の会話をよく覚えていて、終生、黒溝台の話が出るとこのことを語った。 「ともかく難戦というようなものではなかった。あれだけの悪戦をしてよくもまあもちこたえたものだと思うが、ひるがえって思うとこの悪戦を招いた原因として総司令部の手抜りがあったように思うが、どうか」 と、好古は婉曲に詰問した。 が、松川敏胤は作戦家の通弊で、自分の作戦のあやまりは認めたがらず、 「あの時はね、お客さん
(ロシア軍) が当然左翼の方から来るはずだと思って、こっちも待っていたんですよ」 と、強弁した。むろんうそである。総司令部はロシア軍の攻勢に出るということについてはずっと否定的態度でいたし、まして日本軍の左翼方面に出てくるなどとは思ってはいなかった。 好古はさすがに憤然として、 「それは死んだ連中に対する無礼というものだろう。お客を待っていたというなら、ちゃんと接待の支度をしておくべきではないか。なんの接待の準備もしていないところへお客に見舞われたものだからあの大醜態になった。・・・・もともと敵が」 と、好古はしばらく黙り、やがてこの男にしてはめすらしく激しい口調で、 「大集団でやって来るという様子ついてはあし
の手のもとから何度も報告し、警報してきたところだ。そういう予兆を軽視しきっていたためあの不始末がおこった。松川、そうは思わんか」 と、なじった。松川はただ沈黙して騎行し、好古もそれ以上はこのことに触れなかった。
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