ミシチェンコ中将が、地図をのぞきながら、自分が長躯襲撃すべき最終目標としてその地点をたたいた営口というのは、彼のいうとおり、日本軍の重大な補給基地であった。ヨーロッパ人はこの営口のことを、 「牛荘
」 と呼んでいた。しかし実際の牛荘はその北方にあって、営口とは区別されるべきき地域である。営口は遼河が遼東湾に流れ込む河口に位置し、大連港がロシアによって開かれる以前は、全満州の門口として賑わった。当然ながら、在満の日本軍への補給物資は、大連港と営口港に陸揚げされる。このための倉庫も営口にある。 ついでながらこの時期、日本軍の兵站へいたん
の中心は遼陽にあり、その遼陽に向かって物資を送り込む場所のひとつとして営口がある。 ついでながら、ミシチェンコが立案した営口までの機動コースは、二百キロ以上ある。 小部隊の軽快な騎兵運動ならともかく、砲車や砲弾それに食糧までひきずり、途中戦闘行軍をしつつ機動してゆくときことから見れば、この作戦が相当雄大なものであることがわかる。 ミシチェンコは、まず軍隊の集合からはじめねばならない。彼の隷下に入るべき諸部隊は、諸方の陣地に散在している。それらを、第一集合地である奉天西南二十キロの地点に集めた。さらにその集合が終わると、第二集合地へ、奉天西南五十キロの地点にある四方台という村のあたりに前進し、宿営した。 これらの集合と移動に数日を要した。なにしろ騎兵と砲兵、それに新たに付属された歩兵一個連隊といった各種の兵糧が雪の曠野をあちこち動きまわる様子は壮観なものであり、とうていその動きを秘匿ひとく
出来るものではない。 当然、日本軍の最左翼を守りつつ敵情を偵察しつつある秋山騎兵旅団の捜索網に触れた。 秋山好古はそのつど、総司令部に報告し、 「敵はなにか大規模な作戦を企図している模様である」 と、しつこいほどにその予兆についての意見をつけ加えてきたが、そのつど総司令部は、 「また騎兵の報告か」 と、これをまったく
── と極言していいほどに ── 黙殺した。総司令部は、総参謀長児玉源太郎以下、 「ロシア軍は冬季には活動しない」 という、根拠あいまいな、それだけに信念化してしまったような固定概念にとりつかれてしまっていたのである。のちに引き起こされて黒溝台の惨戦は、その初動期においてすでにそのような運命ににめり込むべく日本軍は置かれていた。 この前後、好古がやった騎兵の長距離捜索と後方撹乱作戦は、ミシチェンコがやったそれよりもはるかに騎兵的であった。ミシチェンコが動きつつある一月九日、彼は山内保次少尉の斥候隊を出し、また永沼秀文ひでふみ
中佐の率いる挺進隊をはるか蒙古地帯まで出し、さらに同十二日、長谷川茂吉少佐の率いる第二挺進隊を敵中に放ち、さらにはのち建川美次中尉の挺進斥候を放つなど、さかんに捜索活動をやっていたが、それらの報告はほとんど総司令部で握りつぶされてしまった。 |