〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part V-\』 〜 〜
── 坂 の 上 の 雲 ──
(五)
 

2015/05/24 (日) 

黒 溝 台 (三)

「ミシチェンコ大騎兵団の襲撃は、沙河滞陣の夢を破った」
と、黒溝台会戦の幕開けをなしたこの大騎兵集団の運動について、日本側の多くの記録はそのように、つまり 「日本軍の冬営の夢をおどろかせた」 というふうに表現している。
奉天の総司令部にいるクロパトキンは、総攻撃に先だち、日本軍の実情を知ろうとした。その陣地の配置、厚薄、弱点、そして補給能力の実態についてつかもうとし、
「それには威力偵察がよかろう」
ということで、ミシチェンコ中将とその騎兵集団を動かそうとしたのである。
ところが、旅順が陥落した。この報が奉天のクロパトキン総司令部に報ぜられたのは一月二日の夕刻である。
「作戦を大変更しなければならない」
ということで、総司令部は大騒ぎをし、深夜まで会議がつづいた。
まず、
── 旅順を救わねばならない。
というクロパトキンの作戦上の負担は、この陥落によってその一項だけ軽くなった。
しかしながら乃木軍が北へ躍進して来る、という重大な事態に対処しなければならない。出来れば乃木軍が戦線に到着するまでの間に総攻撃を行わなければならない。
さらには積極的に乃木軍の到着を遅らせることも可能である。
「乃木軍が利用する鉄道を破壊してしまえばよい」
ということは、たれにでもわかる。作戦部長のエウエルト少将がそれを主張し、
「ミシチェンコ閣下にそれをやってもらうことにすればいかがでしょう」
と言ったとき、万事計画の堅牢さを好むクロパトキンが、この時ばかりは即座に、
「模範的な戦術案だ」
と、両眼を輝かせて採用した。日本軍の後方深く騎兵集団を送るというのは一見冒険的な計画に見えるが、しかし騎兵という機動部隊の用兵についてはロシア人は歴史的にも地理的にも習熟しているところがあって、物堅いクロパトキンでさえ、これをさほどの冒険であるとは思わなかった。
となると、ミシチェンコの任務は単に威力偵察だけでなく、鉄道その他の軍事施設の破壊を兼ねねばならないため、その編成も大がかりなものになるであろう。
クロパトキンは、ミシチェンコ中将の騎兵七十二個中隊半という大兵力のほかに、乗馬猟兵四隊、砲二十二門を付属させることにした。兵力がざっと一万である。その機動力と火力を兵力に換算すれば、日本軍の後備師団の兵十万に匹敵するといっていい。
ミシチェンコ中将が、雪景色の奉天に着いたのは三日午後である。彼は総司令部にクロパトキンをたずねた。
作戦部長のエウエルト少将が、作戦計画について説明した。ミシチェンコは卓上の大地図の上にかがみこみながら、営口の場所をたたき、
「ここまで行きましょう。営口は日本軍の大補給基地です。これを襲撃し、砲弾糧秣りょうまつ ことごとく火をもってゼロにしてしまいましょう」
と言った。クロパトキンは大いに喜び、このロシア軍きっての猛将の意見を容れた。

『坂の上の雲』 著:司馬遼太郎 ヨリ
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