ロシア軍がナポレオンの大軍を冬期に撃破したというその伝統と習性を、児玉もよく知らなかったし、児玉の懐
ろ刀がたな ともいうべき松川敏胤大佐も多少そのことを知っていても、昔物語程度にしか評価していなかった。 第一、ときに零下四十度までさがるこの寒気の中では、銃を持つことさえ困難だった。もし素手で砲身をさわったりすれば、電気に吸われたように指がぴたっと音を立てるようにして鋼面に食っついてしまう。 夜間、歩哨などに立つ場合、たえず歩きまわっていなければ、靴の裏をとおして寒気が刺しあがってきて、湿った靴下を凍らせ、足が凍傷になるおそれがある。騎兵も、馬に乗りづめでは足があぶなかった。ときどき歩行して血液の循環をよくして行動しなければならない。 この戦役における日本軍の防寒被服は、じつに粗末なものであった。靴は裏に毛のある防寒靴ではなかったし、外套もふつうの冬外套であり、帽子もふつの帽子で、このため壕を出てしばらく外気に中にいると、額が凍ってくるような感じで、ひどい頭痛を感ずることが多い。 ところがロシア軍兵の防寒被服は、日本兵のそれに比べて値段で見当をつけても三倍は高価なものであろう。彼らは帽子も外套も長靴も毛皮で保温されていたし、その上、氷雪の中での生活に馴れきった民族であった。冬季の軍隊が日露いずれが有利かは、どの面をとってみても瞭然たる答えが出る。 「冬季にはロシア軍は動くまい」 という松川の固定概念は、こういう常識から見ても簡単に破られそうなはずであったが、日本民族が最初に集団体験したこの恐るべき冬の中では、 ──
敵もおなじだろう。 と、ついに児玉や松川たちの思考力もちぢまってしまったのかもしれない。 日本軍の最左翼を受け持つ秋山好古は、騎兵の本務の一つである敵情捜索をさかんにやっていて、ついには好古は永沼挺進隊という大規模な長距離挺進隊を派遣し、遠く蒙古地帯まで入り、敵の後方をまわって鉄道破壊や後方撹乱をやりつつ情報をとるという冒険作戦まで実施していた。 このため好古のもとにはふんだんに敵の動きについての情報が入り、そのつど総司令部に報告した。とくにこのたびのロシア軍の攻勢についてはそれを推察し得る情報がふんだんにあり、そのつど報告したが、そのつど松川敏胤は、 「また騎兵の報告か」 と、ほとんど失笑に付して、一度といえども顧慮を払わなかった。 「ロシア軍が、冬季攻撃するはずがない」 という、もはや信仰化したとさえいえる松川の固定観念によるものであった。 その理由の一つは松川たちの疲労によるものであろうが、一つには常勝軍のおごりが生じはじめたからであろう。かつて彼らは強大なロシア軍に対し、勝利を得ないまでも大敗だけはすまいと小心に緊張しつづけたころは、針の落ちる音でも耳を澄ますところがあったが、連戦連勝を重ねたために傲おご
りが生じ、心が粗大になり、自然、自分がつくりあげた 「敵」 についての概念に適あ
わない情報には耳を傾けなくなっていたのである。 日本軍の最大の危機はむしろこの時にあったであろう。 |