〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part V-\』 〜 〜
── 坂 の 上 の 雲 ──
(五)
 

2015/05/19 (火) 

水 師 営 (二十一)

この異様な沈黙については、
「旅順で死んだ幾万の霊魂がこの部屋に集まって来たようで、どの幕僚の顔を見ても、喜悦などというような表情がなく、ちょうど、なにかに押しつぶされそうになっているような、そういう苦悩がある」
と、有賀博士はのちのちまで門人たちに語っている。こしこの場の空気を西洋人が見れば日本人の感情表出ろいうもののふしぎさに、むしろぶきみなものを感ずるであろう。
悦ぶにはあまりにも犠牲が大きかったし、すぐ飛びあがって笑顔を作る気にもなれないほど、この七ヶ月の心労は大きすぎたのである。
「伊地知さん、処置をしてください」
と、乃木が伊地知に声をかけたとき、魔法がやっと解かれたようにして部屋の空気が動き始めた。
有賀が、言った。
「ステッセルの申すのは、開城の条件について談判をしたい、これについての乃木男爵閣下の同意をのぞむ、ということですから、返事は先ず、同意スル、という文章からはじまるべきです。さらにステッセルは、もし乃木閣下において同意されるならば開城の条件及び手続きなどを討議するための日本側委員を指名されたい、とあります。さらに日露両委員が会同すべき場所を乃木閣下において選定されんことをねがう、とありますから、返事は事務的であるほうがのぞましい」
委員は、有賀の進言によって、伊地知幸介ただひとりが選ばれた。むろん、有賀をはじめ大勢の人物がついて行くが、それは伊地知の随員ということでいい、と有賀は言った。
場所は水師営とされた。
日時は、早ければはやいほどいい。籠城中の軍隊には不測の事態がおきやすいからである。
「あす (一月二日) 正午会同、ということに致しましょう」
と、伊地知はやっと声をはずませた。乃木も、微笑をもってそれに同意した。
あとは返書をつくらねばならない。これは交際法学者有賀長雄の独壇場であった。
有賀は、おそらくステッセルの幕僚より国際法に通じていたであろう。この場合の委員とは、
「全権委員」
でなければならない。伊地知は開城交渉について全権を持つ。その全権については、乃木希典署名の委任状を必要とする。ステッセルの側にもそういう資格者の派遣を要求すべく、有賀は返書に書いた。しかもさらに双方が会同したとき、それぞれの主将の全権委員たるべきことを証明するその委任状を交換しなければならない、と書き添えた。
もし有賀のロシア側にとっても親切すぎるほどの記述がなければ、会場談判はその結果が示すようなスムーズさで運ばなかったであろう。
この有賀起草の文書に乃木希典は署名し、翌二日朝、山岡熊治少佐を軍使としてロシア陣地へむかわせた。
ステッセルはそれを受取った。
彼は日本軍の伊地知に対する彼の委員として、レイス参謀長を任命した。

『坂の上の雲』 著:司馬遼太郎 ヨリ
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