開戦当時、コンドラチェンコ少将がいったところでは、 「旅順要塞は半分も出来上がっていない」 ということであった。彼は極言して、 「要塞など事実上はどもきも存在しない」 とも言った。 それほど開戦早々の旅順要塞は、この勇猛でしかも工兵学科に通じた軍人から見ればなまはんかなものであった。 要塞を作るという施工部門は、このコンドラチェンコのような兵科の軍人の仕事ではなく、要塞技術部という技術将校の連中の仕事であった。グリゴーレンコという技術大佐がその責任者である。 「グリゴーレンコは、私腹を肥やしている」 というのは、旅順ではもっぱらの噂であった。ロシア帝国の官吏はこの点、ややアジア的で、担当官が公金を着服したり流用したりすることについいぇは、まわりがどうやら寛大すぎる傾向があったようである。 要塞技術部長グリーコレンコは、開戦まで四年の歳月をついやしたが、完全に仕上げたのは、敵艦隊に対する沿岸砲台群だけで、敵が陸上から攻めて来ることを防ぐ方面については、コンドラチェンコのいうとおり、 「半分も出来ていない」 という状態だったかも知れない。開戦のときまだ地ならしをしつつあるという状態の砲台もあり、砲台と砲台を結ぶ中間砲台や堡塁または小口径の砲兵陣地といったたぐいのものは未完成といってよかった。 一説では、グリーゴレンコ技術大佐が、シナ労務者に支払うべき賃銀を着服したため労務者が集まらず、こにため工事が遅れていたともいう。 このような未完成要塞を、乃木軍が到来するまでのあいだ、突貫工事でなんとか間に合うようなものに仕上げた功労者は、工兵科将校のコンドラチェンコである。ステッセルが勇断をもってその施工に必要な権限をコンドラチェンコに与えたということが、旅順の防御力を飛躍させるもとになった。 ところがコンドラチェンコといえども、二〇三高地がこの大要塞の最大の弱点であることに気づかなかった。この二〇三高地は開戦の当初、堡塁などはなく、歩兵の散兵壕が中腹にあった程度であった。 この高地の重大さをコンドラチェンコに教えたのは、日本軍である。九月十九日の第二回総攻撃のとき、第一師団が乃木軍司令部に許しを乞うてここを攻め、しかもごく小当りに攻めただけで、軍司令部はその攻撃を徹底させず、以後、この高地の存在に関心を示さなくなった。コンドラチェンコはこの事実によって、 「二〇三高地が弱点である」 と気づき、西南山頂に強断面の堡塁を築き、東北山頂にも堡塁を築き、軍艦の副砲をはずしてこれらに据え、さらに横牆、内壕、交通壕、鹿柴、軽砲台などを作った。 乃木軍にあれだけの惨澹たる犠牲を強いたのは、コンドラチェンコであると言っていい。 |