東郷と上村が東京に戻ったのは、この月の三十日である。新橋停車場に降りると、数万の群集が押しかけて、彼らを歓迎した。 両人は、宮内省からさしまわされた馬車に乗って登営したが、幕僚たちはそのまま海軍省へき行った。真之もその一人であった。 夕刻、真之はまず四谷信濃町の兄の好古
の留守宅へ行き、老母と嫂あによめ
の多美に挨拶をした。 母親のお貞はすでに七十八歳で、出征前に比べると、ひとまわり小さくなったような感じで、真之はどうにも彼女を正視することが出来ず、ついにお貞から、 「淳じゅん
(真之) よ、オマイ、妙にこそこそして。──」 と、苦情を言われた、真之の目によほど落着きがなかったらしい。 真之にはそういうところがあった。父の久敬が松山で死んだのは明治二十三年であったが、この時兄の好古はフランスに留学中であり、弟の真之は海軍少尉候補生で、軍艦
「比叡」 に乗り組み、コンスタンチノープルにいた。 その後、好古は松山に帰って来た時、 「お母さん、お父さんは亡くなったそうじゃな」 と、表情を常のようにし、世間話のように言った。好古はこういう場合でも感情を表面に出さぬように努めた男だったが、真之の場合は帰宅してしばらく母親の顔を見ているうちにたまりかねたのであろう、声もおさえずに泣き出し、その泣きっぷりの激しさにお貞の方が当惑したくらいであった。 いまも、真之は、 (もしこの母が死んだらどうしよう) ろいう思いで、感情がどうにもならなくなっている。 そういう真之という男の性分は、この末っ子を一番可愛がって来たお貞にはよく分かっていた。そのためにわざと元気そうにふるまっているのだが、じつはこのところ足が弱り、厠に立つのがやっとで、という日常で、ほとんど寝たきりで暮していた。 この日お貞には、多少いつもと違ったところがあった。今まで真之が進級しても何も言ったことがないのに彼が海軍中佐になっていることをひどく喜んだことである。 この進級については、いま奥軍の最左翼にいる好古からも艦隊へ手紙が来た。その手紙を嫂に懐中に入れ来たが、しかしそれをお貞の目に触れることをおそれ、ついに出さなかった。好古の手紙というのは、弟の進級を祝ったあと、
「一家ノ滅亡、患わずら フル・
ニ足ラズ。兄弟トモニ未曾有みぞう
ノ国難ニ斃たお ルルヲ得バ一生ノ快事、ト今後ノ舞台ヲ相楽シミ居リ候」 と、ある。 真之は日没後、青山高樹町たかぎちょう
の新居に戻った。そこに、去年の七月に娶めと
った妻の李子すえこ が夕食の支度をして待っていた。 この新妻が玄関に迎えたとき、真之はよほど羞はず
かしかったのか、ものも言わず、しばらく脹ふく
れっ面でいたという。 |