東郷は旗艦三笠に戻ると、すぐ大本営に向かって長文の電報を打った。 起草は例によって、秋山真之である。真之は鉛筆をとって三十分で書き上げた。内容は、 ──
これをもって旅順封鎖作戦は終了せり。 というものであった。 折り返し、軍司令部長伊東祐亨
から、指示が来た。 「第三艦隊を残して、引き揚げよ」 というものであった。第三艦隊というのは中将片岡七朗が率いているもので、二等巡洋艦 (四千トン強)
四隻を主力としているものであった。その艦名は厳島、橋立、松島で、鎮遠 (七千トン強) だけは日清戦争の時の捕獲艦で、型も大きさも速力も違っている。ほかに三等巡洋艦が四隻、砲艦や海防艦のたぐいが十隻、それに水雷艇隊が三艇隊付属している。この第三艦隊が、敵要塞への補給路を断つ仕事と、乃木軍への協同作戦のために残留する。 「東郷連合艦隊司令長官は、上村かみむら
第二艦隊司令長官とともに便宜べんぎ
、大本営へ登営すべし」 と、伊東はその命令の最後に書いた。 三笠以下東郷の艦隊は、その根拠地であった裏長山列島を離れ、第一艦隊は呉へ、第二艦隊は佐世保に入った。 どの艦も傷いた
みようがひどかった。長期間、浮きっぱなしいであったことと、黄海海戦をはじめ大小の海戦のために、砲などもずいぶん痛んでいる。三笠なども取り換えねばならない砲がいくつかあった。 呉のドックには、損傷のはげしい戦艦敷島などが、一足先に帰国して入渠にゅうきょ
していた。たとえば敷島の場合、主砲から副砲の一部にいたるまで取り換えねばならず、機関の傷みようもはなだしかった。 敷島を検査した技術官が、 「修理には二ヵ月半かかるだろう」 と、予定を立てた。 ところが、敵のバルチック艦隊の動向がよくつかめず、いまにも極東水域に出現しそうだという切迫感があるため、艦長の寺垣猪三大佐
(のち中将) は、 「それでは敵が来てしまう。もっと早くやれないか」 と、技術官に申し入れた。技術官としてもそのことは当然分かっていた。しかしどうしようもないとしか返答しようがなかった。 ところがいざ修理を始めてみると、職工たちが気負い立っているため、技術官の考えた以上の速度で物事が進んだ。職工たちは休息をとらず、食事時間も立ち食いですませるなどで、働いた。乗組みの兵員たちはそれを気の毒がり、茶を運んだり、間食を作ったりした。艦長の寺垣猪三がついには、 「そのように働いては体がつづかない。まだ三笠も来るし、あと百隻からの艦が来る。からだをうまく使ってくれなければ困る」 と、現場の職工たちに説いてまわったくらいであった。 職工たちの勢いの凄さは、ふつうリベットの頭をハンマーで叩き潰す場合、十回か二十回ぐらいの打撃を必要とするというのが常識であったが、今度の場合、どの職工もハンマーに力がこもって、五、六回で頭を潰してしまうという始末であった。 こんな具合で、敷島の修理は、二ヵ月半というのが、一ヶ月と二十日ぐらいで終了した。 |