真之が、この両将の体面につき、のち東京の大本営勤務の小笠原長生
に物語った感想は、小笠原長生によって文語になって記録されている。 「余は従来、いまだかつてかくのごとく思い出深き場合に会かい
したることあらず、東郷・乃木両大将が、熱誠を籠こ
めて握手せる刹那せつな の光景は、忘るべからざるの印象を余に与えたり」 旅順攻略というこの民族が経験した最大の苦難は、このあたりから民族の叙事詩になってゆくのであろう。 黒井中佐の重砲陣地へ行くまでの間、砲声はなお殷々いんいん
として天にある。 それへ行き着くまでの地形は、大地が波状を呈している。波の裏の低い所を縫ぬ
って行けば、土手下を行くあんばいで、敵の目から姿を遮蔽することが出来る。姿が見えれば、まだ生きている松樹山砲台や椅子山いすざん
砲台から射ってくるのである。 途中、歩きながら、案内者である乃木は東郷に対し、二度同じことを言った。 「あなたは海の提督であって、陸で怪我をされては大変ですから、頭を出してはいけません。頭を出すと、すぐ射ってきますから」 随行の飯田久恒は記憶力がよく、乃木の言葉をそっくり記憶していた。 左が、敵の要塞である。 乃木は東郷をかばうべく左側に自分の体を置き、腰を曲げて歩いた。左側の方がつねに高かった。乃木は東郷を低い側に位置させて進んだ。無口な東郷はべつにさからわず、乃木の言いなりになって歩いている。少し土地が高くなると、 「もっと、そっちへおいでなさい」 と、乃木は東郷のために低い場所を教えた。 やがて、海軍が派遣した陸戦重砲陣地に着くと、黒井中佐が路上で出迎えていた。黒井の案内で二人は土嚢どのう
でかこまれた指揮所へ入った。 「ご苦労でした」 と、東郷は黒井に言った。ちょっと言葉をとぎらせて、 「まだあと・・
があるな」 と、にっこと微笑した。黒井の任務は全要塞の陥落までつづくのであり、東郷はそもことを、東郷ふうに表現しているのである。 「私は、一部の艦艇を残して本国へ帰ります」 東郷は、乃木に言ったのと同じことを黒井にも言った。三十分ばかり居て、ふたたび柳樹房に戻り、夕食をとった。 その席上、会話らしい会話はほとんどなかった。東郷は極端に口数が少なかったし、乃木も多弁ではない。ただ伊地知だけが、いくつかの話題を出した。おもに神経痛の話であった。 食事が終わると、東郷はすぐ出発した。 車中、真之は、 「今夜は大連へお泊りになりますか」 と、聞いた。 「いや、三笠に帰る」 東郷は、言った。そうあるべきであろう。あたらしい敵を待つために、半日でも早く連合艦隊は旅順の洋上から引き揚げるべきであった。 |