東郷が今から行こうとしている海軍重砲の陣地について、今少し触れておきたい。 この部隊は、正しくは、 「海軍陸戦重砲隊」 と呼ばれていた。彼らは東郷の指揮下から離れ、乃木軍司令部に属し、豊島攻城砲兵司令官の指揮下に入った。 これらの艦砲は、その後必要度が増大して、数が増えて行ったが、最初、六月当時、大連湾に横づけされていた旧式二等戦艦扶桑
(三七八三トン) のものを取り外して揚陸された。ほかに、かねて海軍が持っていた陸戦隊用の速射砲も入っている。 扶桑の艦砲というのは補助砲の十二斤きん
砲で、それが十二門揚陸された。その後、十二サンチ砲、十五サンチ砲という大型の艦砲が本国から汽船に積まれて大連湾に入り、揚陸された。 艦砲が、山へ登って行く。 いわば砲身だけで、陸軍砲のように砲架も砲床もなかった。これをどのような装置をもって陸上で使えるようにするかについては、指揮官の黒井悌二郎中佐に一任された。 黒井は工夫に富んだ男で、特別な設計をし、造船材料や鉄材、鉄板などを山の上に運んで独特の砲架や砲床をつくった。 これらが火石嶺を根拠地として三つの砲台をつくり、その砲の数は各種口径のものをあわせて四十三門、兵員は千三百余人であった。 この砲台が最初に砲火を開いたのは、八月七日からであった。この時期、陸軍の砲兵はまだ展開を終わっていなかったため、旅順攻撃の初動期に咆哮したのは、意地知が嫌ったこの海軍砲であった。 十一月三日には、黒井悌二郎はおもしろい試みをしている。この日、天長節であった。 礼砲を射たねばならなかった。海軍の礼砲は二十一発であttが、陸軍では百一発とされていた。黒井は、 「われわれは臨時に陸軍に配属されているから、陸軍式の百一発を射とう」 と言い、それを空砲を射つより実弾を射とう、と立案した。その実弾は、むろん敵地に射ち込むわkだが、その目標を旅順港内に指定した。むろん二〇三高地陥落以前で港内を見おろす観測所を持たないため、狙って射つことは出来ない。 黒井は、港内を図上によって碁盤の目に仕切ってしまい、その目ごとに一発ずつ砲弾を落としてゆくことにした。使用弾数は、一砲台ごとに百一発、三砲台あわせると三百三発になる。 これをやると、砲撃なかばで港内に大火災が起こるのが見え、やがて黒煙が天にみなぎり、すさまじい情景になった。 この陸戦重砲隊が、旅順で使った使用弾数は十五サンチ砲が五千発、十二サンチ砲が一万七千発、十二斤砲が二万三千発で、長距離射程をもつ重砲としては最大の活躍をしたといえるであろう。 すでに東郷はその艦隊を率いて本国へ帰ることになっているが、彼の部下の中で黒井中佐以下の陸戦重砲隊だけが、旅順要塞の陥落まで残らねばならぬことになる。 東郷が慰労しようとしていることには、そういう事情も背景にある。
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