東郷は、話すべきすべてが終わったあと、 「クロイのもとに行って、慰労したい」 という旨のことを乃木に言ったことだは、確かである。 「私が、ご案内しよう」 乃木がそう言って卓上の帽子をとりあげたことも確かであった。 ここで、 「クロイ」 というものについて説明しなければならない。クロイとは海軍中佐黒井悌二郎のことであったが、もはや一個の施設の名称のようになっていた。海軍が、乃木軍に協力するために砲艦を陸揚げして陸上砲台を築いた。黒井はその総指揮官であった。 かつて東郷の幕僚が、 ──
旅順攻撃に協力するためm艦砲を陸揚げしたい。 と言ったとき、乃木の参謀長伊地知幸介は、 「ご無用である」 と、返事をした。陸軍は陸軍だけでやりたいという思想から出たもので、伊地知は日清戦争の時にもよく似た紛争を起こしているが、彼にはどうも海軍との調和を病的に嫌うところがあった。 は、海軍は、めずらしく固執した。海軍の考えでは口径の小さな陸軍砲で要塞のベトンを打ち砕く事は出来ない。敵艦の甲帯を打ち砕く艦載砲を陸上で使えばどうだろう、ということであった。が、伊地知は、 「陸の心配は陸でやる」 と言った。が、伊地知には専門をたて
にとる癖へき があり、素人が何を言うか、という気持があった。この伊地知が持っていた最大の滑稽さは、軍事というものには素人と玄人の違いがあると信じ込んでいたことであった。 ──
自分は、砲兵の専門だ。 と、たえず言っていた。要するに海軍の提案を素人案として一蹴した。ついでながら、大砲の操作法といったような技術分野には素人と玄人の問題があるにしても、軍ストラティ
事ジック というものそのものには素人・玄人おいうものがない。このことは軍事の本質にかかわることであり、例をあげると、ここで素人・玄人の言葉をことさらに使うとして、長篠ながしの
ノ役における武田軍団の諸将はことごとくその敵の織田信長よりはるかに玄人であったが、信長が案出した野戦における馬防陣地の構築と世界史上最初の一斉射撃のために潰滅してしまった。そのくせ信長や秀吉の戦法は江戸軍学びはならず、武田信玄の古風な甲州陣法が軍学になって幕末まで継承されたというおtころに、旅順における伊地知幸介を生むにいたるところの日本人の心的状況メンタリティ
の一系譜があるであろう。 ともあれ、この海軍の提案は、結局乃木軍司令部が生け入れることになった。 その後、黒井中佐を指揮官とするこの海軍重砲の働きは、二十八サンチ榴弾砲とともに旅順要塞を震撼しんかん
させつづける威力になったが、陸軍側の戦史は、その威力を大きく評価しようとはしなかった。 東郷はその黒井悌二郎の重砲陣地へ慰労しに行こうというのである。
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