〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part V-\』 〜 〜
── 坂 の 上 の 雲 ──
(五)
 

2015/04/30 (木) 

海 濤 (六)

東郷の竜田は、竜王塘りゅうおうとう という小さな岬を目指している。海軍ではこの岬のことを、 「ルワンタン」 と発音していた。むろん岬というほどの大げさなものではない。その岬に、海軍ではかねて望楼をつくっていた。その望楼から、西南西方をのぞむと、旅順口がよく見えるのである。
ロシア側は、この岬に日本海軍がこっそり火ノ見やぐら じみた望楼をつくっていることを、うかつに気づかなかったらしい。この地点ならば、旅順大要塞のうち、東鶏冠山の砲台から十分に射てるところであった。が、日本側は樹木で擬装したりして見えないようにしていた。
東郷はそこへ行こうとしている。
やがて竜田は、旅順要塞から見つけられることなく、竜王塘の岬の東側にひっそりと錨を下ろした。このあたりの海は、奇妙なほどに青い。すぐ竜田から、ボートは降ろされた。そのボートが東郷と飯田少佐を望楼に運んだ。
望楼上で、飯田は二倍の双眼鏡をかかげて西南西方を見た。
東郷は、連合艦隊の将校の中で彼しか持っていない例の大きな双眼鏡をかまえた。八倍の倍率をもったツァイスの新製品である。
東郷は、はるか旅順口の港口をふさいでいる老虎尾半島をのぞんだ。その半島にはいくつかの山がならんでいる、その西南のはし、つまり半島のつけ根にある山が、城頭山であった。その城頭山が海に落ち込んでいる海面に、一隻の大きな軍艦が、うずくまっている。
戦艦セヴァストーポリであった。
飯田は双眼鏡で見たり、肉眼で見たりした。どちらで見ても、敵戦艦の状態は十分に見える、元来高いはずの舷側が、ひどく低い。しかも多少の傾斜がある。浅い海底に艦底がついているということは、その姿を見ればたれにでも了解できる。要するに沈んでいる。
(長官にはそれがわからないのか)
と、飯田は不審に思うほど、東郷は息を詰めるようにしてしの一点を凝視しつづけていたが、やがて、
「沈んでおります」
と、言った。
この無口な人物が言った、沈んでおります、という言葉は、飯田久恒によって終生語られつづけた。十ヶ月に及ぶ封鎖作戦は、この瞬間、ピリオッドがうたれることになったのである。これによって東郷は極東水域における緊張から解放され、あとはバルチック艦隊の回航を待つばかりになった。
東郷は、竜田にもどった。
「今日は、大連の港務部に一泊する。秋山中佐に電信して、明日港務部まで来るように申して下さい」
と、飯田に言った。
東郷は、そういう予定を立てた彼は明日大連を出発して第三軍司令部を訪れ、乃木希典に慰労と感謝の意を述べるつもりであった。

『坂の上の雲』 著:司馬遼太郎 ヨリ
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