「戦艦セヴァストーポリがいない」 ということで、九日朝から、乃木軍の巨砲群は港内外に向かい、だい捜射をおこなった。 下肢範囲の外をうつため、むろん勘に頼るほかなかった。一弾でも偶然命中してくれれば黒煙があがり、その黒煙を目標に射つことが出来るのである。 東郷指揮下の封鎖艦隊も、むろん洋上から可能な限り捜索した。 ある駆逐艦が、浮流機雷の浮いている危険水域に近づき、竜王塘
という地点まで行くと、セヴァストーポリの影を見た。それ以上近づくのは危険なため、いそぎ帰ってきた。 戦艦セヴァストーポリの艦長は、旅順艦隊きっての勇者といわれたフォン・エッセン大佐であった。このドイツ系ロシア人は、最初三等巡洋艦ノーウィックの艦長で、その快速を利用して開戦以来、終始東郷艦隊に挑戦し、東郷艦隊のほうでも、 ──
またノーウィックが来た。 といった調子で、もっとも有名であった。エッセンは、艦隊が旅順港内で居すわることになってから、中佐から大佐に昇進し、戦艦セヴァストーポリの艦長になった。 この戦艦はすでに戦闘力の大半を失っていたとはいえ、エッセンは、陸軍砲によって陸からむざむざと沈められてゆくことを恥じ、むしろ旅順港外に出、日本軍の海軍砲で沈められることを欲した。 エッセンは、操艦の名人であった。彼は港外へ出た。老虎尾半島のふちをたどって城頭山の下に出ると、艦を止め、錨いかり
を下ろした。いざという場合は、兵員を陸へ待避させる用意もととのえた。要するにフォン・エッセンは、戦艦の墓場たるにふさわしい洋上においてこの艦の生涯を閉じさせようとしたのである。 が、日本側にとっては、相手は衰えたりといえども戦艦である。この処置について三笠の艦上で幕僚会議が開かれた時、秋山真之は、 「味方が損害を蒙ってはどうにもなりません。水雷艇の夜襲で始末してもらうしか仕方ありませんな」 と、発言した。ついでながら真之はこの当時中佐に昇進していた。 結局、水雷攻撃ということになった。 東郷艦隊は、ありったけの水雷艇をこの攻撃のために部署し、つぎつぎに繰り出した。 この水雷攻撃が、十二月九日から同十六日までかかってもなお、 ──
セヴァストーポリは確実に沈没した。 という報告を得ることが出来なかった。 なにぶん、夜間で見通しがきかない。また波が荒く、小さな水雷艇の船体では波に翻弄されてスクリューが宙に舞うこともあった。さらにはセヴァストーポリはそのまわりに機雷をばらまいている危険もある。それ以上におそろしいのは、相手が、この当時、万能の巨人とされた戦艦であることだった。どの水雷艇もこの戦艦と刺しちがえようとするほどの勇気がなく、ほどのいい距離をとって魚雷を発射し、あわてて帰って来るという始末であった。軍人たちは大海戦で死ぬことについては覚悟が出来ていたが、この程度の仕事で死ぬことをあまり喜ばなかった。その気分が、これほど長い日数を、停止軍艦を仕止めることにかけさせたのであろう。 |