東郷の連合艦隊は、乃木軍の旅順要塞攻撃中、ずっと洋上から旅順口を封鎖し、港内のロシア艦隊が外へ飛び出さぬようにしてきた。 艦は疲れ、兵の疲労もはなはだしい。 その間、敵のバルチック艦隊が刻々近づいていることが、東郷以下の焦燥になっていた。敵の大艦隊が来襲するまで、艦をことごとく内地においてドック入りさせる必要があった。 このため、海軍から岩村、伊集院
という二人の参謀を連絡将校として乃木軍司令部に派遣していた。その二人の将校からの連絡で、 「三笠」 の首脳部は、陸軍の戦況とその経過をくわしく知ることが出来た。 「児玉大将が南下し乃木軍司令部に入った」 ということも、その連絡で知った。 「主攻撃を、二〇三高地に転換」 ということを知ったの。転換してほどなく二〇三高地が陥ち、その山頂に観測所が設けられた。その観測将校の誘導により、砲弾が山越えで旅順港内のロシア艦隊をつぎつぎに撃沈しはじめたことが分かったとき、東郷は、 「それはよかった」 と、小さくうなずいた。笑顔を見せるほどにはいたらなかった。彼の執念はなお港内のロシア艦隊から離れず、 ──
一隻でも撃ち洩らせば困る。 という完全主義のとりこになっていた。たとえ戦艦一隻でも健在なら、そしてそれが外洋に出るとすれば、日本近海の輸送は重大な危機に陥るであろう。そうなればたとえ一隻が港内に生き残っても、東郷はそれを封鎖するために最小限戦艦二隻は残さねばならない。戦争において完全主義がこれほど要求された例は、海陸の戦史にもなかった。 二〇三高地に観測所が設けられたとき、海軍側もすぐ将校を派遣した。軍艦の艦種や艦名の識別は陸軍の将校には出来ないからであった。 二〇三高地の頂上から見下ろすと、港内のロシア艦隊は洋上で想像していたよりも多く、二十一隻を数えることが出来た。 戦艦五、駆逐艦五、砲艦二、水雷砲艦二、水雷敷設艦一、ほかにエルマークという三本マストの輸送船がいる。編制からいっても、堂々たる艦隊であった。 それらが、六日から八日までの間、二〇三高地観測所の誘導による砲撃で、ただ一艦をのぞくほか、ことごとく沈没もしくは擱座かくざ
し、単なるスクラップになってしまった。うそのような成果であった。 ただ幸運な一艦だけが、日本軍の砲弾から致命傷を蒙こうむ
ることをまぬかれた。戦艦セヴァストーポリである。ほかに数に入らない砲艦が一隻そに幸運の戦艦にくっついていた。セヴァストーポリは、九日早暁、ひそひそと動きはじめ、老虎尾半島の城頭山下にひそんだ。このならば、日本軍の観測所からまったく見えない。
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