〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part V-[』 〜 〜
── 坂 の 上 の 雲 ──
(五)
 

2015/04/25 (土) 

二 〇 三 高 地 (六十)

長州人のひとつの典型が、乃木にある。乃木の場合、その師玉木文之進を中心にしていえば、活動時代がかけ離れているにせよ、吉田松陰と相弟子になっている。
松陰の叔父である玉木は、少年の松陰を鞭をもってきたえ、玉木の考えている典型的武士に仕上げようとした。松陰の母は玉木の教育のすさまじさに、
── 寅次郎 (松陰) お死に。
と、何度か胸中で叫んだという。しかし松陰はきわめて良質な従順さをもっていた。これに堪え、みごとなほどに玉木文之進の武士像を自分の中につくりあげた。玉木の武士像というのは公的なものに献身することにのみ自分の生命と存在に価値を見出すというもので、そういう精神を純粋に培養しようとし、片鱗の夾雑物きょうざつぶつ もゆるさないとうところがあった。たとえば少年のころの松陰が、書物をかかげて読んでいるとき、ハエが頬にとまった。ついそのかゆさに頬を掻いたところ、
── 聖賢の書を読むのは、公である。その読書中にかゆいからといって掻くのは、私情である。この小さな私情を許せば、大人になってからどのような私利私欲を持つかわからない。
として、松陰をむごいほどに殴ったが、そういう玉木文之進の教育を、乃木希典も少年のころ受けた。乃木の場合、松陰以上に濃厚に受けたに違いないことは、彼は玉木家に住み込んでの弟子であることだった。乃木の性格も、良質な従順さがあり、その薫陶に堪えた。玉木文之進は明治九年、萩の乱に連座して自殺するが、彼の生涯の仕事は、吉田松陰と乃木希典という、彼自身が純粋思考によって考えた武士の典型を二人も歴史の中に送り出したことにあるだろう。
ただ玉木は、能力者としての武士像を想定しなかった。松陰の江戸留学時代、他藩の友人たちが、
── もし自分たちが戦国乱世の人であればたれに相当するか。
と、酒席で論じた。誰それは百万石の仕事が出来るであろうとか、たれそれは先鋒で勇をふるう侍大将であるとかいうぐあいに酒興の議論が進んで、やがて松陰になった。この時不在であった。
── 彼はせいぜい数千石のがらである。それも野戦攻城の猛将でなく、一城を守りぬくところに役柄がある。
と、一人が言うと、他の一人は、
「でもないだろう。その城将の奥方の看病人もっともいい」
と言った。松陰は婦人については身が固く、まるで清僧のように生涯婦人とは無縁の人であった。松陰はこの話をあとで聞き、べつに怒らず、彼自身、後年、その文章の中で、
── 自分には英雄の素質はとてもない。
という意味のことを書いている。英雄のもつ譎詐奸謀けっさかんぼう の能力や煮ても焼いても食えないという性格からは、松陰はおよそ遠かった。
松陰は日本思想史上の巨人であるとともに、幕末期における比類のない文章家であったが、乃木希典は、明治期における最も優れた漢詩人である点、多少、同門の松陰に似ているかもしれない。

『坂の上の雲』 著:司馬遼太郎 ヨリ
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