〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part V-[』 〜 〜
── 坂 の 上 の 雲 ──
(五)
 

2015/04/25 (土) 

二 〇 三 高 地 (六十一)

二〇三高地は、すでにおさえた。
乃木希典日記の十一日の項に、
「有風、烈寒、零下十度」
と、ある。
この朝、彼は豊島山の陣地を巡察しなければならなかった。柳樹房の軍司令部を出るとき、観戦員の志賀重昂が、玄関まで送ってきた。外は、烈風に雪がまじっていた。
乃木は庭へおりてからふと志賀の方へ引き返し、ちょっとはにかみの微笑をうかべつつ、
「志賀さん、あとで見ておいてください」
と、志賀の掌に紙片を握らせた。
志賀が部屋に戻ってからその紙片を開くと、鉛筆で詩稿が書き付けてあった。
有名な爾霊山にれいさん の詩である。
    爾霊山嶮豈難攀
    男子功名期克艱
    鉄血覆山山形改
    万人斉仰爾霊山
とある。
志賀は小声で みくだした。
    爾霊山 嶮なれどもあに がた からんや
    男子功名 かん つを期す
    鉄血山を覆うて 山形改まる
    万人斉しく仰ぐ 爾霊山
志賀は、この詩に驚嘆した。
── 自分も遠く及ばない。まして児玉さんなどは。
と、数日前の詩会での児玉の詩を思ったりした。第一、
「爾霊山」
という、この言葉の輝きはどうであろう。この言葉を選び出した乃木の詩才はもはや神韻しんいん を帯びているといってよかった。二〇三にれいさん という標高をもって、なんじ の霊の山という。単に語呂を合わせているのではなく、この山で死んだ無数の霊 ── 乃木自身の次男保典をふくめて ── に乃木は鎮魂の想いをこめてこの三字で呼びかけ、しかもけつ の句でふたたび爾ノ霊ノ山と呼ばわりつつ、詩の幕を閉じている。
じつは、二〇三高地が陥落した日の翌日、この山にどういう名をつけるかについて、山上で議論があった。
第一師団長の松村務本かねもと は、
「鉄血山がいい」
と言った。鉄と血をもって奪ったからだという。これに対し、矧川しんせん 志賀重昂は、
「旅順富士はどうでしょう」
と献案したが、あとで考えて、志賀はわらながらまずい案だと思った。
「児玉山はどうでしょう」
と言う者がいて、ほぼそれに決まりかけたが、なんとなく議がまとまらず、そのままになっていた。その命名のまとめ役は、志賀重昂が引き受けさせられていた。
(爾霊山以外にない)
と、志賀は、この詩で思った。

『坂の上の雲』 著:司馬遼太郎 ヨリ
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