このあと、乃木軍の軍医部長の落合泰蔵も入って来て、大一座になった。 ちょうど、児玉が、筆をとって自分の詩を書いている時であった。 「ははあ、徳利寺
」 と落合はのぞきこんだ。児玉のこの詩は、彼がこの旅順にやって来る時、車窓からかつての徳利寺激戦のあとを望見し、戦死者の墓標をはるかに見ながら、手帳に書きこんだものであった。 徳利寺とくりじの
辺あたり 天籟てんらい
悲し 帰鴉きあ
去って復また 新碑を弔とむら
う 十年の恨事一朝の露 跡は雄心の落々たる時に在り 「どうも、結けつ
の句がうまくゆかん」 と、児玉はくびをひねっている。 なるほど詩となると、児玉は乃木の比ではない。 「天籟悲し、はどうも」 と志賀重昂ものぞきこんで、やや不満げであった。天籟とは風の音。新戦場を吹いていて悲しい、では俳句でいえば月並で通俗的であろう。帰鴉去って、というのも滋賀はどうも道具だてが型どおりである、カラスが新墓の上を飛んでいるなども噺はなし
めいて感心せぬ、とくさしたが、ただ転句の 「十年の恨事一朝の露」 だけは、これは動かし難い句だ、と言った。 「十年の恨事」 というのは、日清戦争後、ロシアを主唱国とする三国干渉があり、日本はその列強の圧力に屈して遼東半島を清国に還付かんぷ
した。そのロシアがそのあとここを清国から強引に租借そしゃく
し、旅順に軍港をつくり、大連に総督府を置き、さらに南満州鉄道をつくって領土化し、さらに朝鮮へ南下しようとした。日本の世論は激昂し、臥薪嘗胆がしんしょうたん
という言葉が流行し、陸海軍は対露戦の準備をととのえた。以来、十年である。十年の恨事とはそのことを指しており、日露戦争の起因そのものを含んでいる。その恨みは徳利寺の砲火の中で燃焼し、砲煙の消えた今、十年は一朝の露でしかない、という感慨であろう。 「まずいかね」 児玉は言いながら、なた書きくだした。書きながら、 「下手な者ほど、いくらでも出てくる」 と言い、 「旗鼓堂々鉄城を摧くだ
く」 と書きはじめた。背後でそれを見ていた田中国重少佐までが内心、 (まるで小学唱歌のようだ) と思った。 ついでながら田中は反故ほご
の整理係で、それを家宝にしようと思い、ひそかにとっておいた。が、彼は児玉の詩稿のみをとり、乃木のそれは捨てたらしい。ところが戦後、児玉の名が世間に知られることが薄く乃木の名声が旅順の名将として世間に喧伝されるにおよび、 「乃木さんのもとっておけばよかった」 と、旅順を語るとき、つねにそれを語った。田中の皮肉であったのかどうか、わからない。 |