〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part V-[』 〜 〜
── 坂 の 上 の 雲 ──
(五)
 

2015/04/20 (月) 

二 〇 三 高 地 (五十五)

二〇三高地の陥落は、ロシア軍の防御構成に重大な影響をもたらした。
ロシア軍にとってこの高地と連繋した要地だった赤坂山の堡塁などは、かつてあれほど日本兵を殺傷した強力陣地でありながら、地勢上その力を失い、六日、守備兵は戦わずして退却した。
自然、日本軍が占領した。
ついで、ロシア軍の寺児溝北方高地の堡塁群も、孤塁に陥った。日本側はこれに斥候を発して探ったところ、すでにロシア兵の影をみとめなかった。六日午後二時、日本軍はこの高地一帯に進出し、占領した。
さらに三里橋さんりきょう 西北高地の敵も、同時刻ごろ堡塁を捨てて逃げた。
乃木日記の十二月六日の項に、
「赤坂山以東ノ敵、退去ス」
とあるのは、これである。
この六日の夕刻、児玉は高崎山を出て、二〇三高地に登った。随行は相変らず田中国重少佐である。
山頂に立って東をのぞむと、なるほどこの高地の位置は奇妙であった。一望のもとに、旅順港の大観をおさめることが出来るのである。
山も市街も雪をかぶって白く、やや左に白玉山が盛り上がり、正面にこの展望での最高峰である黄金山が、やや火山に似た姿ですそをひいている。それに囲まれて、真っ青な潮色しおいろ を見せているのが、旅順港であった。
その港内の東のすみに、旅順艦隊の各艦がかたまっていた。どの艦も、児玉の頭上を越えて飛んで行く二十八サンチ榴弾砲の砲弾によって、黒煙をあげている。応戦するものは一艦もなかった。その余裕など少しもないほどに、日本軍の各種重砲の砲弾が落ちつづけているのである。
「豊島が、艦砲の仕返しを妙にこわがったが」
と、児玉はその砲撃の様子を見ながら、つぶやくようにして田中に言った。
「豊島は物を知りすぎているから、そう思ったのだろう。わしは何も知らんから、敵に撃つ余裕をあたえぬほどにこっちが撃ちつづければよかろうと思ったのだ」
それが、うまくいった。
「すると、閣下のはまぐれですか」
と、田中は、児玉をからかってみた。
児玉は鼻を鳴らした。笑ったのである。が、まぐれではない、と言った。
「気合のようなものだ。いくさは何分の一秒で走りすぎる機微をとらえて、こっちへ引き寄せる仕事だ。それはどうも智恵ではなく気合だ」
児玉は足もとの用心の悪い男で、山をおりるときに二度もころんだ。一度は、砲弾がつくった大穴へ落ちた。硝煙のにおいが残っていた。
田中は児玉の腕をとってひきあげた。
山麓で馬に乗るとき、
「田中、あす煙台に電話をかけて、北方の敵情を聞いておけ」
と命じたが、児玉は北方の敵情が活発になっているということが気になって仕方がなかった。彼が日本国家の安危を賭してやるべき本務はこの旅順ではなく、北方の戦場にあった。

『坂の上の雲』 著:司馬遼太郎 ヨリ
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