二〇三高地が陥ちたことが、日本軍をあれほどく苦しめた旅順要塞にとって、致命傷になった。陥落早々、日本軍の重砲弾が、この高地を越えて旅順港と旅順市街にとどめもなく落下しはじめた。 児玉は、成功した。あと、旅順要塞には多数の砲台があるが、要塞にとって脳髄というべき要塞背後を日本軍砲兵の自由な照準に曝してしまった以上、要塞全体が加速度的に衰弱するであろう。 (あとは残敵掃蕩
とおなじだ) と、児玉はみていた。それは当然乃木軍に任せておいていいし、彼らの義務でもあった。思えば、最初、海軍が海上から発見したこの二〇三高地という大要塞の弱点を、乃木司令部が素直に認め、東京の陸軍参謀本部が海軍案を支持したとおりに乃木軍司令部がやっておれな、旅順攻撃での日本軍死傷六万というぼう大な数字を出さずに済んだであろう。が、もしこの期間で児玉が乃木に代わるという非常処置をもって総指揮をとらなかったならば、この数字はいよいよ増えたに違いない。 「もう、おれの用はすんだ」 と、児玉が随員の田中国重少佐に言ったのjは、この五日、二十八サンチ榴弾砲の第一弾が、山越えに飛んで港内の軍艦に命中した時であった。 翌六日と七日、児玉はさらに作戦指導をつづけた。この七日、乃木は朝食後、前線の高崎山を去ったが、児玉はなおも残った。 この十二月七日、乃木希典の陣中日記によると、 「七日、霧アリ」 と、ある。朝霧がふかく、あたりの山々はまったく霧の中に没している。彼我の砲弾のみが。殷々と聞こえた。ときに、大地が震動するのは、生き残りのロシア軍砲塁から飛んで来る巨弾が炸裂するためであった。 乃木日記の七日の項、つづく。 「朝食後、高崎山ヨリ柳樹房ニ還ル。大嶋中将ヨリ、カステラ、茶、沖津鯛おきつだい
到来。リンゴヲ送ル」 乃木は、後方の柳樹房軍司令部に帰ったのである。ここまでは、敵の砲弾も飛んで来なかった。乃木は連日の前線での起居で疲れきっていたが、しかし体をやすめようとせず、執務用の机に向かった。 夕方になって、児玉がこの柳樹房に帰って来た。門前の声でわかった。児玉が、樹の上に登っている電信兵に何か大声で話しかけている様子であった。 乃木は立ち上がって庭へ出、児玉源太郎をむかえた。児玉の顔もひげも砂で黄色くなっていた。乃木が労をねぎらう言葉をさがしているうちに、児玉が、 「やあ、腹がへった」 と、乃木の右の腕をたたいた。めしを食わせてくれ、というのである。 「日夕、児玉大将帰ル」 と、乃木の日記にある。 |