〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part V-[』 〜 〜
── 坂 の 上 の 雲 ──
(五)
 

2015/04/19 (日) 

二 〇 三 高 地 (五十二)

「二十八サンチ榴弾砲をもって、二〇三高地越えで港内の軍艦を射て」
と、児玉が命じたとき、乃木軍の攻城砲兵司令官豊島陽蔵は、
(こればかりは拒否せねなばならぬ)
と、思った。児玉に対して乃木軍司令部が示した最後の抵抗であったであろう。
豊島少将は、まるで牛のように児玉のために鼻づらをひきまわされてきた。今日の午前十時すぎも、そうであった。斉藤少将の決死隊が二〇三高地の西南角へ突入したとき、児玉は、
「観測班をただちにあの西南角へ登らせよ」
と、豊島に命じたのである。まだ東北角のロシア軍が抵抗をつづけている時であった。大体、歩兵の突撃にくっついて砲兵の観測将校が有線電話を引っ張って駈け登るというような戦闘は、砲兵の常識にはなかった。危険であり、観測将校の戦死を、豊島は気づかった。が、児玉はきかなかった。
観測所が、設置された。
── そこから旅順港は見えるか。
という、児玉の有名な言葉が、電線を通じて西南角の頂上にいる観測将校に伝わったのは、この時であった。
── 見えます。丸見えであります。
という旨の観測将校の返事が聞こえたとき児玉は軍艦砲撃を決意した。砲兵陣地は、山頂の観測将校が指示するままに照準を合わせて砲弾を送り出せばよい。
それを、豊島に命じた。豊島は、かねて児玉のその意図に気づいていたから、反対の理由を即座に言った。
「それは不可能であります」
「理由。 ──」
児玉は、みじかく叫んだ、理由を言え、というのである。
理由は、砲兵科出身の者なら、だれでも同じことをいうであろう。
まず、二十八サンチ榴弾砲というのはいかに巨砲でも徹甲弾ではなく榴弾をうち出すわけであり、軍艦をつらぬこことが出来ない。
ついで、軍艦を射てば、軍艦が報復してくる。まず二〇三高地の観測所を吹っ飛ばすであろう。ついで、山頂の陣地を破壊し、さらに、今は山麓近くまで前進して来ている砲兵陣地を砲撃するに違いない。口径の小さい陸軍砲と口径の大きい海軍砲よが勝負をすれば、その結果は明瞭であった。
豊島は、そのことを主張した。
(この男、すこし馬鹿か)
と、児玉は豊島の口ひげのあたりをしみじみと見た。口ひげはしきりに動いていた。
児玉にすれば、そもそもこの乃木軍による旅順要塞攻撃は海軍側からの要請によるものであった。その海軍の要請というのは、港内に引っ込んで外洋へ出ないロシア旅順艦隊に手こずったあげく、陸上からの要塞占領を陸軍に依頼した、ということなのである。
その後、乃木軍はこのために大苦戦をせねばならなかったが、その目的はあくまでも単純であった。港内の軍艦を沈めれば足りる。沈めてしまえば、東郷艦隊は封鎖を解き、佐世保に帰って艦艇の修理をし、来るべきバルチック艦隊に備えることが出来るのである。
(あまりの戦闘の苛烈さがつづいたせいか、豊島の帽子の下がぼけてしまったらしい)
児玉は、にがい表情をつづけている。

『坂の上の雲』 著:司馬遼太郎 ヨリ
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