ここで、二十八サンチ榴弾砲についてふれておかねばならない。 「海防」 という危機意識を籠めた言葉は、江戸中期以後、ロシアをはじめ列強の艦船が日本近海に出没しはじめたころからつかわれはじめ、幕末にいたってその意識がいよいよ高まり、幕府はじめ諸藩は、その領域の海岸線に砲台をつくった。が、すぐ役立たずのもにになった。 明治政権は、この幕末の危機意識から生まれた政権だが、維新後しばらくは内乱と政情不安のために、沿岸防備にまでは手がまわらなかった。 「せめて東京湾にだけでも、威力ある要塞砲をしなえたい」 という必要から、それにふさわしい砲を求めはじまたのは、明治十年の西南戦争のあとほどもないころである。 日本政府は、イタリア陸軍の海岸砲にそのモデルを求めた。二基買い入れた。日露戦争の象徴のようになった二十八サンチ榴弾砲の母型は、これである。
すぐさまこれを国産化しようとした。その試作にあたったのは、大阪砲兵工廠であった。鋳鉄
だけはイタリアのグレゴリニー鋳鉄を買い入れ、三門完成したのが、明治十七年である。まず大阪府の信太山しのだやま
で射撃テストをし、そのあと東京湾の観音崎かんのんざき
砲台に据えつけて各種のテストを行ったところ、その成績はきわめて良好であった。その結果。明治二十年、海岸砲としての制式砲になった。 が、明治陸軍には兵器の国産化という絶対方針があったため、輸入のグレゴリニー鋳鉄を用いることを早くやめねばならなかった。これにかえるに釜石銑鉄せんてつ
を用いることにしたところ、さの試作砲も成績は良好であった。明治二十六年以後の製造によるこの砲は、すべてが国産であった。 この巨砲の砲身は前記のように鋳鉄である。この鋳鉄の外側に鋼製の被筒をかぶせる。 砲架は装匡式そうきょうしき
の固定砲架であり、架匡かきょう
は三百六十度旋回することが出来る。四方に対して射撃が可能なのである。 さらにこの砲は、他の陸軍の野砲や山砲にくらべ、発射による砲身の反動を駐退機ちゅうたいき
というバネ装置によってもとへ戻すことが出来るという点で特異がある。駐退機というのは、その内容にバネとグリセリンが入っており、いわば一種の水圧駐退機であった。 一発射つと、砲身は上架ともども後退するが、やがて反動の消えるとともに砲身の自重により復座する。 弾丸は、堅鉄弾であった。ただ多少の難はその炸薬さくやく
は黄色薬ではなく、それよりも威力の少ない黒色薬が用いられていることであった。 さらにこの砲は、海岸要塞に恒久的に据え置くという目的に沿って、その移動はふつう不可能に近いということであった。 ところが、日本陸軍はこれを旅順で用い、逐次据えつけてついに十八門に達した。 余談ながら児玉は、この重い砲を六門、のちの奉天の戦場まで分解して引きずって行くというとほうもないことをやり、その威力をぞんぶんに発揮させた。要塞用の恒久据え付け砲が、野外決戦に用いられた例は、世界戦史にない。 |