〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part V-[』 〜 〜
── 坂 の 上 の 雲 ──
(五)
 

2015/04/18 (土) 

二 〇 三 高 地 (五十)

叙述が前後するが、二〇三高地に対する歩兵の突撃が開始されたのは、この十二月五日の午前九時からである。
左右二個の縦隊をもって実施されった。斉藤少将の指揮する縦隊は二〇三高地の西南角へ向かい、吉田少将の指揮するそれは、東北角に向かった。
これを援護するための児玉方式の砲兵の用兵は、きわめて重厚で適切であった。歩兵は、友軍の砲弾の傘をかぶりながら、行動することが出来た。二十八サンチ榴弾砲にかぎっていっても、一発二百十八キロという重い砲弾を二千三百発射ちこんだ。
少将斉藤太郎は、三十名ずつの決死隊を連続して登攀とうはん 、突撃させた。生き残って西南角に達した者は、山頂の敵と激闘しつつ防御工事をほどこし、次々に三十人ずつの新手がよじ登って、それをくり返した。
乃木希典のこの日の日記に、
「朝ヨリ二〇三砲撃。九時ヨリ斉藤支隊前進。目的ヲ達ス」
と、ある。
「目的ヲ達ス」
と、簡潔に書かれたその事実は、その文字通り、いかにも簡潔であった。午前九時から開始して、同十時二十分には二〇三高地西南角は完全に日本軍によって占領された。わずか、一時間二十分である。
その時期にもなを、二〇三高地東北角のロシア軍は、頑強に抵抗している。これに対しては、少将吉田清一指揮の縦隊が、午後一時三十分、攻撃を開始した。この方面で、まず登攀突撃に成功したのは、歩兵第二十八連隊の第一中隊であった。銃剣をきらめかせて突撃し、占領を確実にした。攻撃開始から占領までに要した時間は、わずか三十分である。まるで魔術を使ったような、うそのような成功であった。
この間、児玉は終始戦闘経過を注視しつづけた。
児玉は、二〇三高地占領がほぼ確定した午後二時、みずから有線電話にとりつき、山頂の将校に向かって電話した。
旅順港は、見おろせるか」
この点、長く疑問とされてきた。
東郷の封鎖艦隊は、早くから、海上から地形を按じて、 「二〇三高地から旅順港を見おろし得る。このこの高地を奪って山頂に観測所を設け、陸地から山ごしに重砲弾を撃ちこむことによって、旅順艦隊を覆滅できる」
として来たが、乃木軍司令部は、それに対して一顧もはらって来なかったのである。
児玉は、それに着目した。重砲陣地を大転換させることによって歩兵突撃を容易ならしめ、あっけないほどの簡単さで、二〇三高地をうばった。
受話器に、山頂からの声がひびいた。
「見えます。各艦一望のうちにおさめることが出来ます」
児玉は受話器をおろした。彼の作戦は奏功した。あとは、山越えに軍艦を射つことであった。
『坂の上の雲』 著:司馬遼太郎 ヨリ
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