〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part V-[』 〜 〜
── 坂 の 上 の 雲 ──
(五)
 

2015/04/16 (木) 

二 〇 三 高 地 (四十七)

児玉はこの第七師団司令部で、出来るだけ精緻せいち な戦況を知っておこうとした。
児玉はこの前夜、随行の田中国重少佐に命じ、
「第七師団の参謀に、攻撃正面の地図を書かせておけ」
と言っておいた。
すでにその地図が出来ている。
児玉は天眼鏡を出し、その地図に見入った。一枚の紙に、無数の軍隊符号が書き込まれており、それがいかにも雑然としているのは、戦況の惨烈さのために諸隊が互いにいり混じっているせいであろう。児玉は、その符号の一つ一つに意味を見出しながら凝視ぎょうし していたが、やがて同じ中隊が左翼にも右翼にもいるこよを発見した。
(これはどういうわけだ)
と考えたが、意味が分からない。やがて、師団参謀の書きまちがいであることが分かった。書きまちがいというより、その参謀が、現地を知っていない証拠であった。現地からの報告だけを基礎に参謀はそれを机上で組み立てて作戦計画を練っているということが、これだけでも明白であった。軍司令部にせよ師団司令部にせよ、この戦いを連戦連敗させている主たる原因はここにあった。そのことは、児玉は繰りかえし指摘してきた。
それだけに、地図を覗き込んでいる児玉の怒りはすさまじかった。
(この連中が人を殺してきたのだ)
と思うと、次の行動が、常軌じょうき を逸した。彼は地図の向こうにいる少佐参謀におどりかかるなり、その金色燦然こんじきさんぜん たる参謀懸章をつかむや、力まかせに引きちぎった。
「貴官の目は、どこについている」
と怒鳴った。次の言葉が、長く伝えられた。
「国家は貴官を大学に学ばせた。貴官の栄達のために学ばせたのではない」
少佐参謀は、顔面蒼白になって突っ立ている。この少佐は、児玉がなぜ怒っているのか、理由がわからないらいかった。
「見ろ」
児玉は、地図の一ヶ所をたたいた。
少佐参謀はそれへ覗き込んだが、やがて理由がわかったらしく顔をあげたが、しかしこの地図の疎漏さに恐れ入っているような表情ではない。児玉の怒りがどの程度であるかをうかが うべく、自分の表情をわざと鈍くした。官僚としての自己防衛の心理の強さは、参謀軍人の通弊ともいうべきものであった。
「しかし、報告はそうなっております」
と、参謀懸章を引きちぎられた屈辱もあって、ややふてぶてしく言った。
「自分で、見なんだのか」
と、児玉は、他の参謀たちにも聞かせるように、大声をあげた。他の参謀も、児玉のこの処置を決して愉快とは思っていなかった。参謀が、第一線の突撃部隊の線までゆく必要があるだろうか。児玉は、この無言の問いを、すばやく感じた。
「参謀は、状況把握のために必要とあれば敵の堡塁まで乗り込んで行け。机上の空案のために無益の死を遂げている人間のいることを考えてみろ」
児玉は、帽子をつかんで部屋を出た。
前線へ行くつもりであった。

『坂の上の雲』 著:司馬遼太郎 ヨリ
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