〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part V-[』 〜 〜
── 坂 の 上 の 雲 ──
(五)
 

2015/04/14 (火) 

二 〇 三 高 地 (四十五)

翌朝六時ごろ児玉は目がさめると、横の乃木のベッドはすでに空になっていた。
「乃木は、どこへ行った」
と、廊下の人の気配けはい に向かって聞くと、乃木はすでに一時間ばかり前に高崎山に出かけてしまったという。乃木は、重砲陣地転換の工事を督励すべく出かけたらしい。
(乃木も、やっと動きだした)
児玉は、おかしかった。
あの重砲陣地の移動が、どれ程困難なものか、児玉はよくい知っていた。砲兵だけでなく工兵隊も総動員されるであろう。予備軍の歩兵をぜんぶかりだされて、その曳行えいこう の主力になるに違いない。かりに一門に一万の人間がかかってロープを くとすれば、どんな重量のものでも動かせぬはずがない。乃木はその曳っぱりの部隊の督励に行ったのであろう。児玉は、その移動の成功についてはたかをくくっていた。
めしをそこそこに済ませると、
「田中ァ」
と、田中国重に声をかけた。田中はあわてて部屋の入口に立った。
「出かけよう」
「はい、馬の支度ができております」
児玉が外へ出ると、総司令部から派遣されている福島安正少将がすでに戸外に出て児玉を待っていた。
彼らは柳樹房を出発した。
「福島よ」
と、児玉は問いかけた。
「柳樹房より、水師営の方が、軍司令部を置く場所としていいのではないか」
水師営の部落は、はるかに敵地に近い。
「閣下のお口から申されないほうがよろしいでしょう。福島が、折をみつけて乃木閣下に自分の意見として申します」
と、福島安正が言ったのは、児玉がこれ以上、細部にわたって口出しすれば、乃木軍司令部が感情的になるおそれがあることを心配したからであった。
児玉も、そこはよく分かっている。
福島安正は、信州松本の人である。
明治初年、東京へ出て来て、飲まず食わずの書生生活を送った。時の司法卿江藤新平の援助を受けたこともあり、元来が、学問をしたかった。が、偶然彼を陸軍省に入れる結果になったが、いっさいの軍事教育を受けたことがない。語学をもって陸軍省の用をつとめるうち、いつの間にか変則的に将校になり、自然に昇進して少将にまでなった。
彼は卓越した記憶力を持ち、十ヶ国に通じ、七ヶ国語を自由にしゃべることが出来た。またこの人物は少佐のころ、ドイツ駐在武官をつとめ、帰任のとき、騎馬でベルリンを出発し露都を過ぎ、ウラルを越え、シベリア横断をやってのけ、さらにモンゴルに入り、満州を経て、ウラジオに終着して、世界にその名を喧伝けんでん されたこともある。
日露戦争が始まると、彼は総司令部のスタッフの一人になった。彼が専従してやっている仕事は、戦場諜報であった。彼のもとで、多くの軍事探偵、シナ浪人、現地人の間諜、それに馬賊などがはたらき、諜報から後方撹乱にいたるまで、日本史上かつてない大規模な組織で動いていた。福島安正はこの功により、のち陸軍大将になっている。北清事変の一時期をのぞき、一度も兵を指揮したことのない特異な軍人であった。

『坂の上の雲』 著:司馬遼太郎 ヨリ
Next