児玉の怒りが、再び上昇し始めた。 ──
第一線の指揮官たちは、軍司令部を信頼していない。 という傾向を児玉はかねて聞いていた。 「参謀が、前線に行ったことがないというのはどういうことだ」 乃木にとって、耳が痛いであろう。が、児玉の横にいる乃木の表情は終始変わらなかった。 「聞くところによれば」 と、児玉は言った。 「ここ軍司令部にあっては、参謀がこの柳樹房の司令部を離れることを不利とする考えがあるという」 伊地知が、攻囲戦開始以来、そういう方針をとってきた。若い参謀たちの中には、戦闘惨烈の現場まで偵察に行きたいと言い出す者があったが、伊地知は、 ──
参謀には参謀の仕事がある。戦闘の状況を見れば、かえって作戦に曇りが生ずる。 という奇妙な説をもって、それを禁じてきた。司令官の乃木もまたこれにひきずられ、歩兵の突撃用の壕のある第一線までは行っていないのである。。乃木軍司令部の作戦と命令が、事ごとに実情と食い違いを生ずるのは、ひとつはここにあった。児玉はそれを痛烈に指摘し、 「第一線の状況に暗い参謀は、物の用に立たない」 と、切るように言った。さらに、 「大庭」 と、乃木軍の中佐参謀の名を呼んだ。大庭は椅子を蹴って立った。 「今から二、三の参謀を連れて前線へ行け。前線の実情をよくつかんで来い。あす、わしも行く。その時報告を聞く」 といってすぐ、 「ないをぐずぐずしている。すぐ行け」 と、言った。 彼らは部屋を出て行った。やがて軍装をととのえ、再び入って来た。三人であった。先任の大庭中佐が挙手の礼をし、 「大庭以下三名、ただいまより前線視察に参ります」 と、申告した。乃木は立ち上がり、彼らのそばへ行き、一人一人に握手をした。生命の危険率は、きわめて高い。乃木はそれについて、 「十分に注意するように」 と、やさしく言った。 その間、児玉は、田中国重少佐の観察ではそっぽを向いたまま椅子から立ち上がりもしなかった。前線へも出ずに兵ばかりを殺してきた参謀たちを、いまさら前線へ行くからといって、いたわる必要がどこにあろう。児玉はそう思っていたに違いない。 このあと、児玉はさすがに疲れた。彼は乃木の部屋にベッドをつくらせ、軍服のまま毛布の中に入った。部屋にはストーヴが燃えているが、妙に寒かった。 乃木は、この時期、不眠症にかっかていた。 児玉はすぐ眠った。
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