〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part V-[』 〜 〜
── 坂 の 上 の 雲 ──
(五)
 

2015/04/13 (月) 

二 〇 三 高 地 (四十三)

次いで、児玉命令の第二項について、佐藤鋼次郎砲兵中佐が、苦情を申し立てた。
「閣下は、歩兵が二〇三高地を占領したあと、その占領を確実なものにするため、二十八サンチ砲をもって、一昼夜十五分間隔でぶっ通しに二〇三高地に援護射撃を加えよ、とおっしゃいましたが」
「うむ、言った」
児玉は、佐藤を見すえた。
「となれば味方を射つおそれがあります。おそれというより、その公算大であります」
これこそ、玄人論であった。砲兵の援護射撃のむずかしさは、味方の歩兵の頭上すれすれに砲弾を跳び越させて、敵だけを粉砕することにある。ところが、二〇三高地頂上のよな狭い場所で、敵味方のせりあいが錯綜さくそう してくるとき、とても援護射撃などは出来ない、味方もろとも粉砕してしまうおそれがあるからだった。要するに佐藤は、砲兵の常識としてそういう場合は援護射撃はしないのだ、ということを言いたかったのである。
「そこをうまくやれ」
と、児玉はおだやかに言った。
佐藤は、承知しなかった。
「陛下の赤子せきし を、陛下の砲をもって射つことは出来ません」
と言ったから。児玉は突如、両眼に涙をあふれさせた。この光景を、児玉付きの田中国重少佐は、生涯忘れなかった。児玉は、彼なりにおさえていた感情を、一時に噴き出させたのである。
「陛下の赤子を、無為無策の作戦によっていたずらに死なせて来たのはたれか。これ以上、兵の命を無益に失わせぬよう、わしは作戦転換を望んでいるのだ。援護射撃は、なるほど玉石ともに砕くだろう。が、その場合の人命の損失は、これ以上この作戦を続けて行くことによる地獄に比べれば、はるかに軽微だ。今までも何度か、歩兵は突撃して山上にたどりついた。そのつど逆襲されて殺された。その逆襲を防ぐのだ。防ぐ方法は、一大巨砲をもってする援護射撃以外ない。援護射撃は危険だからやめるという、その手の杓子定規しゃくしじょうぎ の考え方のために今までどれだけの兵が死んできたか」
乃木は、黙っている。
児玉は、さらに言った。
「先刻、耳にしたところによれば、二〇三高地の西南の一角に、百名足らずの兵が、昨晩から貼りついているそうだ、彼らは歩兵の増援どころか、砲兵の援護もなく、ただ寒風にさらされて死守しているらしいという。その姿を、この場にいる者で見た者があるか」
児玉は、一座を見まわした。おどろくべきことに、この軍司令部では、軍司令官をはじめ、その幕僚のたれもが、その光景を見に行った者がないのである。
「名誉ある勇士の死が迫っている。それを救おうともせず、またその山頂の一角の確保を拡大しようともしないというのは、どういうわかだ」

『坂の上の雲』 著:司馬遼太郎 ヨリ
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