一座の沈黙は、なおも続いた。 そのなかにあって、児玉はあご
をあげて、窓を見つめている。彼も、沈黙を続けた。彼にはこの一座の沈黙が、どういう意味であるかがわかっていた。まず、 ── 児玉は、乃木閣下の統帥権を犯している。 ということであろう。次に、 ──
重砲についての認識が皆無である。 ということに違いない。 さらには、乃木軍の司令部幕僚は、その幕僚としての領域を侵されたという、官僚特有のグループ意識が、児玉のこの不合理な闖入ちんにゅう
に反撥していた。 この沈黙の底にあるそういうたけだけしい叫喚きょうかん
を、児玉の頭脳と肌は十分に感じていた。が、児玉は、この一団と戦うことによってのみ、日本国家は救われると覚悟していた。児玉が煙台の総司令部を出るとき、遺書を書いて行李の底に秘めておいたが、その死はステッセルの弾にやられることだけが、想像される契機ではあるまいと思っていた。場合によっては、軍司令部内部において、不測の事態が起こるかもしれない。戦闘中の司令部というのは、日常の感覚ではとらえられない激情に人間が支配されることがある。 「なにか質問はないか」 なければ、命令の細部に入るつもりであった。はたして、立ち上がるものがあった。 (伊地知か、豊島か) と、児玉は思ったが、そういう少将級の人間は、こういう座では軽挙はしない。 奈良武次たけじ
という砲兵少佐と、前記の佐藤という同じく砲兵の中佐が、こもごも立ち上がって、児玉に猛然と反撃してきたのである。 「重砲陣地のすみやかな移動などは不可能であります」 というのが、奈良の意見であった。 児玉は、信じなかった。 彼はかつて、東京の大本営が、東京湾の要塞砲である二十八サンチ砲を旅順に送ろうとした時、伊地知参謀長が、 「要塞砲というものは、その砲床工事のベトンがかわくだけでも一、二ヶ月を要する。そういう無用の長物を持ち込んでもらっても役に立たない。送るに及ばない」 と、返事をしたが。東京では強いてこれを送った。ところが東京から現地に出張した横田砲兵大尉指揮の砲床構築班は、わずか九日でこの据え付けを終わってしまった。伊地知はじめ旅順の砲兵専門家が、こぞって不要としたこの二十八サンチ砲が、今のところステッセルを戦慄させている最大の威力になっている。今、乃木軍司令部のもとで咆哮ほうこう
しているこの巨砲は、十八門であった。のち、東京の参謀本部次長長岡外史は、 「じつに同砲は、旅順陥落の偉勲者の一つとして永く記念せねばならに」 と、書いている。 児玉は、奈良をおさえ、 「命令。二十四時間以内に重砲の陣地転換を完了せよ」 と、大声で怒鳴った。結果から言えば、児玉の命令どおり、二十四時間以内に重砲は二〇三高地の正面に移されたのである。 |