児玉はその重大な一件を切り出した。どのように切り出せば乃木の名誉と自尊心に触れずにすむかについて児玉は心を痛めていたが、実際に口に出したときは、からりとした口調で、 「どうも、伊地知のやり方を見ていると、重大な点で間違いがあるように思う」 と、伊地知を悪者にした。乃木が悪いのではなく参謀長の伊地知幸介少将が悪いのだということにしなければ、乃木の面目が立ちにくい。 乃木は、黙っている。ふだんなら彼は、 「伊地知はよくやっている」 と、将領らしく部下をかばうのであったが、このときさすがに児玉の笑顔の底に尋常でない気迫のようなものを感じ取ったのか、乃木はめずらしくその決まり文句を言わなかった。さらにいえば戦況は、そういうお座なりな挨拶言葉で事態をぼかしてしまくことが出来ないまでになっていた。 「そこで、わしは乃木も友人として」 と、児玉は、友人という非組織的な言葉を使った。 「乃木の友人として伊地知に腹蔵のない意見を述べたいと思う」 乃木は、うなずいた。 「しかし」 と、児玉は言った。 「わしが意見を述べて、その成り行き次第によっては、伊地知も意地になり、激昂するかもわからない。それは困る。伊地知が意地になってわしの意見を用いなければ、わしはなんのために旅順に来たかわからない」 乃木はうなずき、 (そのとおりだ) と、素直に思った。乃木にすれば、児玉が単に乃木の友人という資格で意見を述べるだけでは、伊地知参謀長としては、それをきく必要はないのである。伊地知は乃木が直属上官であり、児玉からの指図を受ける筋はない。 「そこで」 と、児玉は言った。 「おぬしのその第三軍司令官たる指揮権をわしに、一時借用させてくれぬか」 みごとな言い方であった。言われている乃木自身でさえ、この問題の重要さに少しも気がついていなかった。乃木はその性格からして、おそらく生涯このことの重大さに気づかなかったであろう。 「指揮権を借用するといっても、おぬしの書状が一枚ないとどうにもならん。児玉はわしの代わりだという書状を一枚書いてくれるか」 まるで詐欺師
のような言いまわしである。 乃木は、この児玉の詐欺に乗った。 「よかろう」 と、快諾した。 この間かん
、児玉は、じつのところ、何度、ポケットに手をふれ、その中にある大山巌の命令書を出そうと思ったかわからない。出してしまえば、乃木の汚名は永久のものになるであろう。児玉はそれを避けるために横合いから物事をいいはじめて乃木を口車に乗せたのだが、乃木はその口車に乗ることによって、自分の危機を外そ
らせるという幸運を得た。 乃木はたちどころに書状を認したた
めた。 児玉はその書状をちょっとおがむまねをしてポケットにおさめると、乃木軍参謀の集合を命じた。 |