すでに、日が傾きはじめている。宿を見つけねばならなかった。児玉は馬を進めて高崎山の山脚に入ると、ちょうどその山腹に壕が掘られてるのを発見した。 「乃木、今夜は二人でここで寝よう」 と、児玉は言った。乃木はちょっと驚いた。乃木は戦場から遠い柳樹房の軍司令部以外の場所で寝たことがない。ここは第一線よりなお遠いとはいえ、重砲の陣地が集中しているところからいえば、前線であった。 児玉はかねて、 ──
乃木軍の軍司令部は弾の飛ぶ場所から遠すぎる。あれでよく前線の状況が分かるものだ。 と、痛烈に叱責していたが、今あらためて乃木に対し、 ── 軍司令部が本気で戦
さをするつもりなら、こういう場所まで前進すべきだ。 ということを、暗あん
にさとらせようとしていた。児玉は、乃木の副官を呼び、この穴の中にアンアペラを敷き、寝具を持ち込み、小机、ランプなどを入れるように依頼した。 ほどなくその準備がととのうと、児玉は、入口の毛布をくぐって乃木を誘い入れた。中は畳二枚ほどの広さがあった。 「呼ぶまで、たれも入れるな」 と、児玉は命じた。児玉に同行した参謀少佐も、入室する自由を制限された。田中は、入口の番人のようにそこに大きな幕舎を張らせ、児玉に用がありしだいすぐ起きられるような態勢をとった。乃木の副官もそうした。 この穴の中で日露戦争史上、統帥に関して、もっとも重大なことを乃木に言うつもりであった。 「軍司令官としての指揮権をしばらく停止し、。自分にそれを移譲せよ」 ということであった。乃木希典の身になってみれば、これほどの不名誉と屈辱はないであろう。 児玉も、若いころからの友人として、乃木をその立場に追い込むことがつらかった。が、この旅順の要塞下で無益に死んでゆく日本人と日本国家のために、児玉はそれをせねばならないと思った。 児玉がもっともおそれていたのは、乃木が、 「いやだ」 と言った場合のことであった。乃木にそれを言う理由は十分以上にあった。軍司令官というのは
── 師団長もそうだが ── 天皇が親授する職なのである。天皇以外の何者もその指揮権を剥奪はくだつ
することが出来ないはずであった。 が、児玉が、この戦史上未曾有みぞう
の処置を行うに当って、大山巌の命令書をポケットに入れて来ていることは、すでに触れた。満州軍総司令官である大山巌なら、 ── 自分が乃木に代って指揮をとる。 ということは、法的に言えないことはない。児玉のポケッチにあるのは、その命令書であった。ただし大山自身が第三軍の指揮をとるのではなく、
「大山の代理としての児玉」 に指揮をとらせようというものであった。 両人は、小机をへだてて向かい合った。 |