〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part V-[』 〜 〜
── 坂 の 上 の 雲 ──
(五)
 

2015/04/11 (土) 

二 〇 三 高 地 (三十四)

乃木は、攻城砲兵陣地をあとにした。道は旅順街道である。乃木は旅順の空を背にして北に向かっている。道はゆるやかな下りになっていた。土城子まで出ると、土の てついた耕地がひろがっていた。視野いっぱいに部落と森が点在していた。金家屯、洪家屯、韓家屯、蒋家屯といった名の部落が、冬木に囲まれている。
風が強くなった。
乃木は土城子の部落を東へ突っ切ってはずれまで出た。辻に廟がある。そこから枝道が出ている。それを右へ折れたとき、どっと風を正面から受けた。顔が粉雪にまみれた。たちまち吐く息が、ひげを凍らせた。
一キロばかり行くと、曹家屯という部落が近づいた。村はずれに廃家がある。匪賊ひぞく よけの土塀が長く、その隅に銃眼が穿うが たれており、その泥のやぐらはなかば崩れている。
その廃家まで来ると、むこうから外套の頭巾ずきん を深くかぶった将校二騎が、乃木に向かって近づいて来た。一騎はシナ馬に乗っているのか、ひどく威勢が悪い。
(児玉ではないか)
と思ったが、舞いあがる粉雪が、乃木の視野を煙らせた。乃木は念のため土塀に馬を寄せ、将校を待った。
児玉も、乃木に近づいた。彼は馬を速めた。
「── 乃木か」
と、児玉は降雪をへだてて叫んだ。乃木は小さくうなずき、セピア色の土塀のかげから挙手の礼を送った。
児玉は答礼せずに顔をくしゃくしゃにして笑い、どんどん近づいて来て、やがて腰をひねって、鞍を寄せた。
「乃木、ひげが白くなったな」
と、児玉が馬首越しに言ったのは、この男らしくもない感傷的な言葉であった。彼はこの西南戦争以来の戦友の痩せ方のひどさに驚いたのである。
(── 乃木の戦べた)
と、むかし児玉は乃木をからかったことがある。児玉はまだ数えて二十九歳のとき千葉県佐倉の東京鎮台歩兵第二連隊長であった。この時期、乃木も東京鎮台に属し、歩兵第一連隊長をつとめていた。この二つの連隊が紅白に別れて対抗演習をしたことがあったが、そのとき児玉は軽々と乃木を破った。乃木は負けたが、しかも自分が負けたことさえ知らず、演習場でぼう然と馬を立てていた。
児玉は乃木に顔を見てふとそのことを思い出した。
(この男をこの窮状から救い出してやるのは、自分しかない)
と、児玉はあらためて思った。この泣きっ面の友人をして、旅順攻略の栄光の将軍たらしめることであった。
が、乃木が、児玉にもし指揮権を移譲しなければ、事は面倒になる。児玉は、大山巌の非常命令書を乃木に見せ、その指揮権をむりやりに停止せねばならないからである。
「乃木、二人だけで話をしたい。どこか場所はないか」

『坂の上の雲』 著:司馬遼太郎 ヨリ
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