〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part V-[』 〜 〜
── 坂 の 上 の 雲 ──
(五)
 

2015/04/10 (金) 

二 〇 三 高 地 (三十二)

そのあと、児玉は乃木軍司令部の作戦について痛烈な批判をし始めた。彼が伊地知にあびせた言葉ほど、すさまじいものはないであろう。
いくつかの熟語に要約すれば、無能、卑怯、頑固、鈍感、無策といったふうの、軍人としてその一語でも聞けば じて自殺しかねまじいほどのもので、伊地知は当然ながら怒りで血の気を失い、ある瞬間には左手で佩剣の鞘をつかんだりした。児玉を殺したい、という衝動を、伊地知は押えかねたに違いない。
「旅順のこの戦況を以って第三軍司令部のみの責任にしようとなさるのは、閣下の卑怯というものでしょう。まず第一に大本営が悪い。同時に、閣下、あなたの御責任でもあります。ではないですか」
と、逆襲してきた。
児玉は、伊地知の議論の幼さに驚いたらしい。
「伊地知、悩乱したか。帝国が、この方面の戦争の責任を乃木とお前に負わせたのだ。お前は参謀長はないか」
と、急に子供に言い聞かせるようにして言った。
「私は左様なことは申しておりません。たとえば閣下、閣下は私が申請した砲弾量を満足に呉れたことがありますか」
(こいつは、子供だ)
と、児玉はいよいよ思った。
伊地知は、つい最近のことを言っている。伊地知は砲弾の補充をふやしてもらうことについて、大山・児玉の総司令部あて、書面で嘆願し、電報で嘆願し、ついには作戦主任の白井二郎中佐を派遣して嘆願させたが、児玉はそのつど却下した。
「この砲弾不足で、どう戦えといわれるのです」
「砲弾不足は、日本軍全体の問題だ。内地で生産が追っつかない。外国へ発注しているが、直ぐの間に合わない。その乏しい砲弾を、野外決戦用とこの旅順攻撃用になんとか配分しているが、必要の半分もまかなえない。伊地知、日本は旅順だけで戦っているのではない。そんなことが分からんのか」
「閣下の御責任を問うているのです」
「お前は女か」
と、児玉は立ち上がった。自己中心的な視野しか持てないという意味で、児玉はそう言ったのであろう。
「軍参謀長でありながら、おのれの作戦の責任を他に転嫁てんか するというなら、いっそステッセルのもとに行って責任を問うてきたらどうだ。貴官が強すぎます、責任は貴官にあろます」
「なにをくだらんことを」
と、伊地知は えた。
「ともかく閣下、閣下がこの戦況をなんとかしようと思われるなら、砲弾をください」
「砲弾がほしいのは、どの軍もおなじだ。与えれれた条件下で最善を尽くすのが参謀官の仕事ではないか」
「最善を尽くしております」
と言ったから、児玉もこれ以上の長居は無駄だと思った。
乃木を探し出して、乃木と掛け合おうと思った。

『坂の上の雲』 著:司馬遼太郎 ヨリ
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