田中はわずかにまどろんだらしい。 目が醒めると、いつの間にか汽車は止まっていた。ホームで十人ばかりの人声がした。 (──
午前二時半) と、腕時計を燈火にかざしベッドから降りようとすると、カーテンのむこうから同行の曹長のうわずった声がした。 「田中少佐殿、二〇三高地が陥ちました」 「えっ」 (本当だろうか) と、田中は疑った。出発の時までの状況ではとうてい陥ちそうになかったのである。 田中は、気を鎮めようとし、 「ここは、どこだ」 と、乗馬用の長靴
をはきながら聞いた。 「金州駅であります」 「で、それは?」 「総司令部から金州駅へ電話があったのであります」 田中は、ホームへ出た。まだ少年のようなあどけない顔をした輜重兵科しちょうへいか
の中尉が、敬礼した。 この報は乃木軍司令部からいったん総司令部に入り、総司令部から、南下中の児玉に報せるべく兵站へいたん
司令部を通じて金州駅まで電話があったのだという。田中は詳細を知りたかった。しかしどうやら無理なようであった。かつてはロシア帝国の所有物だったこの鉄道は今は日本の兵站司令部で管理されているのだが、鉄道電話は、駅々の兵站部を通じているだけで、総司令部の者を呼び出すのは大変であるかもしれなかった。それで陥ちない、というなら詳細が要るが、陥ちたとあれば、もうその事実だけで必要かつ十分であった。 田中は貨車の中に戻った。 児玉はすでに起きていて、めずらしく上衣のボタンを五つかけて、イスにすわっている。 「聞いた」 と、表情をかがやかせた。 「陥ちたそうだな」 「はい、陥ちたそうであります」 「祝杯をあげるか」 「すぐ用意させます」 と、田中は曹長に命じた。 曹長は炊事の部屋へ行き、 「いそいで洋食をつくるんだ」 と、命じた。洋食というのは、カツレツのことであり、この時代、最高のご馳走であった。シャンペン酒が、用意された。 児玉の卓上に、シャンペン用のグラスが置かれた。二つだけであった。 「みなに飲ませろ」 と、児玉は命じた。 随行の下士官と兵卒は、さまざまな容器にその酒をつぎあった。 児玉は立ちあがった。東京なら天皇陛下万歳とか何とか一セリフがあるべきであったが、児玉はよほど感動しているのか、キラキラとよく光る目でみなの顔にいちいち点を打つように見てゆき、やがて無言で飲み干した。曹長がたまりかね、声をおさえつつ、万歳!
と小さく叫んだ。みな、唱和した。 |