児玉は五時間ばかり眠って、深夜に目を醒ました。汽車は、相変らず闇の中を走りつづけている。 「田中、起きちょるのか」 と、児玉は寝台から飛びおりた。五十を過ぎているというのに、ちょうど兎が檻から飛び出したような印象の身ぶりであった。田中は、あわててイスから立ちあがった。 児玉は軍袴をつけて寝ていたが、起きるとすぐ上衣を肩からかけた。テーブルに近づき、卓上の両切りタバコをとりあげ、口にくわえた。 田中はマッチをさがしたが、それより先に児玉はすでに手もとで発火させている。 「失礼しました」 と、田中はマッチをつけなかったことを詫びた。児玉は、 「くだらんことを詫びるな」 と、この陸軍大将は、イスに腰をおろした。
「田中、軍人は階級があがるほどにモウロクしてくる理由を知っているか」 田中は意外な話題に、存じません、と答えると、児玉は、マッチをすることまで部下が介添えするからよ、おれは陸軍大将になっても自分の身のまわりのことは自分でやる、よ言った。なるほどそういえば、児玉は日常の起居のなかで、まるで一兵卒のようにちまちまと自分のことをやっているようであった。 「そのかわり、貫禄は出来んがね」 くすっと笑った。起居動作のことを配下に介添えさせてさえいれば自然に王侯のような貫禄が出来る、と児玉は言った。しかしそんな貫禄はでくのぼう
の貫禄で、すくなくとも参謀には不必要だ、というのである。 たばこを一本喫いおわると、児玉はもう上衣を払いすてて、ベッドにもぐりこもうとしていた。 「田中、おぬしも寝ろ」 「どうも、寝つけませんので」 赤ン坊にもどった気になれば眠れる」 と、児玉は頭から毛布をかぶった。無心になれば眠れる、という意味らしい。 (勝手なことをいう人だ) と、田中は思ったが、児玉のこの時の心境については、戦後、田中は多少の手がかりを得た。のんこそうに見えて、児玉はこの旅順行きについては、戦死を覚悟して遺書を書き、総司令部の彼の部屋に置いてあるカバンの中におさめてきている。児玉は、二つに一つは死だと思っていた。彼は乃木の攻略方法を全面的に変えてしまうつもりでいたし、その場合、出来れば敵の寸前まで行ってつぶさに偵察したい。乃木の軍司令部の最大の欠陥は、それをしないことだということを、児玉は常々思っていた。 ともあれ、児玉はこの旅順行きで戦死を覚悟していたことを、田中は戦後、児玉の死後に知ったのである。
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