総参謀長児玉源太郎を乗せた汽車は、南下しつつある。ときどき車輪が空転した。レールの表面が凍っているためであることは、前に触れた。 (よく眠る人だ) と、随行の田中国重少佐は、とこどき児玉のベッドの方を見て思った。カーテンは半開きになっており、児玉の子供じみた小さな体がベッドの上に載っている。田中はこの夜、どうにも眠れなかった。 (全満州軍で、もっとも心労の多い人であるはずであるのに) と、谷中は児玉のことを思った。げんに児玉は、日露戦争が終わると、精根が尽き果てたように死ぬのである。 (そのわりには、よく眠る) 田中は、変におかしかった。 ときどき、汽車が止まった。止まるたびに遠い砲声が聞こえ始めたのは、それだけ戦場に近づいているのであろう。 田中国重は薩摩人で、三十六歳になる。彼は薩摩人にしては、長州人のよさをよく認めているほうであった。 乃木も、児玉も長州人である。いずれも維新前後において、悲痛な個人体験を持った。 少年期の乃木を薫陶
したのは、親戚の玉木文之進という骨の髄からの古武士で、この玉木は吉田松陰の叔父であり、その師匠でもあった。玉木は維新後、前原一誠ノ乱に関係し、自刃している。乃木の弟の正誼はこの文之進の養子になり、玉木姓を名乗っていたが、前原ノ乱に参加し、戦死した。 児玉の場合は、長州の支藩の徳山藩の出身で、家禄は百石であった。父が早世し、姉婿が家督をとっていた。その姉婿が、藩内の佐幕派に殺された。それも悽惨としか言いようのない死で、佐幕派の壮士数人が覆面して押し入り、家族の前面で抜刀し、兄を斬殺した。児玉はこのころまだ十三歳で稚児ちご
まげ・・ を結ゆ
っていたが、斬殺の現場には居あわさず、その直後に帰宅し、そのあと冷静に死骸の始末その他をやってのけたという。 「むかしはいろいろなことがあったよ」 と児玉が言うのみで、昔ばなしをしたがらなかったが、当主の兄が斬殺されたあとの児玉家の窮状はすさまじいもので、藩は児玉家の家禄をうばい、屋敷から退去することを命じた。その後、高杉晋作のクーデターの成功によって藩論が抗幕決戦へ再転すると、藩は児玉家への処置を一変し、源太郎に家督を継がせ、家禄は二十五石ながらもともかく家名を回復させた。乃木家も児玉家も、要するに維新前後の動乱の中でもまれ、彼らの私的事情と新国家の誕生とが一つのものになっていた。その新国家の存亡がかかっているとき、一人は総参謀長であり、一人は旅順攻略の第三軍司令官であることに、田中は維新前を知らない新世代だけに、ひどく劇的な感慨をおぼえるのである。
|