〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part V-[』 〜 〜
── 坂 の 上 の 雲 ──
(五)
 

2015/04/06 (月) 

二 〇 三 高 地 (二十二)

コンドラチェンコ中将が、二〇三高地奪還のための準備に用意した最後の一項は、勲章であった。
勇者に対する勲章の親受権は、総司令官であるステッセルにしかない。が、コンドラチェンコはステッセルのもとに乗馬猟兵を走らせ、
「この戦局に限り、自分にその権限を移譲してもらいたい」
と、頼んだのだ。功を立てた者に、彼は即座に勲章をやろうとしている。それによって士気を高めようとしていた。
ステッセルはしばらく返事を渋ったらしい。彼は万事杓子定規しゃくしじょうぎ を好む男で、杓子定規だけが軍の秩序と将軍の権威をたもつ方法であると信じていた。
が、このステッセルでさえ、
── どうやら二〇三高地が陥ちれば、旅順そのものが崩壊する。
と、コンドラチェンコの日ごろの説に同調するようになっていたから、この非常の場にその程度の権限をコンドラチェンコ師団長に与えることはやむを得ないと思った。
彼は副官に命じ、各種の勲章を取り出させ、コンドラチェンコの伝令将校に与えた。
「ただし、下士官と兵に限ってのことだぞ」
と、ステッセルは念を押した。むろんそのことは伝令将校もよく承知している。将校に対する勲章親授権は、皇帝その人のあった。
ついでながら、こういう用件は本来なら電話でおこなわれるべきところであったが、日本軍の砲撃のために電話線はどこもかも切断されており、目下電信中隊が復旧工事をしているものの、その間、コンドラチェンコは伝騎をもって後方や前線にその意志や命令を伝えざるを得ない。
この伝来将校がコンドラチェンコの司令部に戻った時、すでに同中将の大逆襲は実施されつつあった。
時刻は、午前零時前後である。
トレチャコフ大佐は、コンドラチェンコが与えてくれた補充兵と、数日来の戦闘で疲労しきっている生存兵を率いて、山頂堡塁とその東南防堡塁に布陣し、山頂堡塁の一部を占領中の日本軍とすさまじい戦闘を開始した。両軍の距離は、走れば十分で行ける程度のもので、要するに両軍は山頂の最高部を隔てて近距離の射撃戦を展開した。この戦闘の激しさは、わずか三十分のあいだに両軍の生存者が半数になったことでも分かる。
ただトレチャコフ大佐に有利であったことは、彼にコンドラチェンコというすぐれた戦闘計算家がついていることであり、援軍をどんどん送って来てくれることであった。
が、日本軍の香月・村上の両隊の生存部隊は、信じられないことだが、孤立していた。どこからも、援軍がなかった。旅団も師団も、兵力が涸渇こかつ しきっていた。なぜなら、ここ数日の戦闘で、日本軍は五千人以上の死傷者を出してしまっていた。ここにも乃木軍司令部の計算違いがあった。兵力は小出しに使うべきでなく、必要とあれば大量に使用すべきであり、あと一個師団の新兵力を二〇三高地のふもと に伏せておけば、状況は大いに違ったであろう。

『坂の上の雲』 著:司馬遼太郎 ヨリ
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