前線への伝令を命ぜられた少尉乃木保典は、剣のつか
をつかんで、地下壕から飛び出した。彼は性来快活機敏な正確で、南山なんざん
で戦死した兄の勝典かつすけ 中尉よりも軍人としては適む
いていた。 保典は弾雨の中を駈け、ほとんど奇跡的に村上隊のすくんでいる第二歩兵陣地へ飛び込んだ。彼は村上大佐に対し、友安旅団長の命令を伝えた。 「前進せよ」 ということである。ほかに、今ひとつ伝えるべき命令があった。旅団司令部の司令部員がほとんど全滅したため村上の連隊から要員を差し出せ、ということであった。 村上は、承知せざるを得ない。 ──
この状況で前進出来るか。 よは、村上は言わなかった。軍隊における命令の重さは、日本陸軍史上、日露戦争のときほど重かった時はないであろう。 「ただちに前進します、と復命せよ」 と、村上は言った。乃木少尉はそれを復唱しすぐさま村上の陣地を飛び出した。 が、この少尉はついに友安旅団長にまで復命することが出来なかった。帰路、前額部を射抜かれて戦死したのである。単独で駈けていたため、戦死の状況はついに分からない。時刻は午後四時ごろであった。乃木希典は、南山と旅順の戦場で、二人の息子を二人ながら喪った。 伝令の乃木保典は戦死したが、彼が伝えた旅団命令は、村上大佐とその隊を動かした。 村上大佐の突撃は、血しぶきとともに行われた。その一隊は敵の第二鉄条網の前後で一人残らず戦死した。 すでに村上大佐のもとで生き残っている残兵は百人余りにすぎなかった。村上は午後六時この百人を率いて前進を開始した。 「二十八連隊
(村上の隊) が動いた」 ということが、西南角の堡塁にもぐり込んでいた香月中佐の部隊にわかると、香月はしぐ運動を開始した。猛進といってよかった。 猛進する以外にない。脚力がつづくかぎり駈けることによって、途中の兵力損失をわずかでも防ぐことが出来るのである。村上大佐の隊も同様であった。同大佐以下百人を支配しているのは、理性ではなかった、狂気であった。 香月・村上の両隊が、南北呼応してロシア軍の歩兵陣地に殺到した。ロシア軍歩兵はその陣地に千人いた。 日本軍は約五百人である。五百人と千人が、それぞれ銃剣をきらめかして、地獄のような格闘を開始した。ロシア兵は、白兵戦に対して概して臆病であった。ついに逃げ腰になった。白兵戦を勝利に導く要素は、無我夢中の勇敢さだけしかない。激闘は三十分ばかりつづき、ロシア兵が陣地を捨てた。香月・上村両隊にも大きな損害があったが、村上隊はさらに進んでついに午後九時、山頂に達した。残存者は五十人ぐらいにすぎなかった。この五十人に対し。友安旅団長は、村上大佐に対し、 「貴官は全滅を顧慮することなくさらに前進して二〇三高地を占領せよ」 と、命じた。古来、東西を問わず、これほどすさまじい軍命令はなかったであろう。 その友安旅団長も、手持ちの予備兵が二個中隊しかなかった。友安は、香月中佐にも同様のことを命じ、この香月・村上の両隊は悪鬼のように進んで、ついに二〇三高地を占領した。ときに三十日午後十時である。 |