これだけのロシア軍の銃砲火の中で、驚嘆すべき日本軍の死の突撃の反覆の結果、三十日の夜十時、奇蹟が出現した。 二〇三高地は、日本軍の手で占領することが出来たのである。ただし不幸なことに一時的占領にすぎなかったが。 その前日の朝、この方向の将帥である大迫尚敏は、二〇三高地を展望できる高崎山に登り、戦況を見た。大迫のそばにいた一曹長は、 (これは地獄だ) と、つぶやいたという。全山を日本兵の死体が、びっしり覆
っていた。 大迫の左側に伏せて双眼鏡で敵陣をのぞいているのは第一師団長松村務本かねもと
中将であった。彼は二十七日からの戦闘経過をのべ、目下の味方部署と敵情を説明した。松村の陽やけした顔は戦塵と戦煙で、鉄さび色になっていた。この松村はかねてより二〇三高地主攻撃説をとっていて、何度も乃木軍司令部に献策していたが、そのつど無視された。 「あの二〇三高地の頂上へさえ登れば、旅順港が見おろせるのです」 というのが、松村の口ぐせであった。 大迫尚敏は、東京で長岡外史に会って来ているだけに、乃木戦略の基本的な誤謬ごびゅう
はよく知っているし、この二〇三高地こそ旅順大要塞を陥すカギであることもよく知っている。 「松村さん、われわれがみな死ねば、なんとか奪と
れるだろう」 と、作戦の打ち合わせが終わったあと、大迫は窪地にあぐらをかきながら言った。大迫は齢よりも早くひげが白くなっていたが、そのひげが砂で黄色くなっていた。ついでながら大迫の弟は尚道といい、少将として従軍しており、大迫の三男の三次中尉はすでに戦死している。 「三十日未明を期して攻撃を再開しよう」 というのが、大迫と松村がこの二十九日、高崎山で打ち合わせた結論であった。麾下きか
諸部隊の新部署が決定された。 戦略的な立場から見れば、新しく投入された旭川の第七師団は不幸であったというべきであろう。乃木は、仕入れの下手な小売商人のように、相変らず兵力の逐次使用をやる人であった。本来ならもう二個師団ぐらいを二〇三高地方面に転用して一挙に攻撃すれば、この三十日における惨澹たる損害は、もっと少なくて済んだであろうし、その成功も一時的なものでなくて済んだかも知れあい。 三十日未明、日本軍の重砲は、かつてないほどの弾量を二〇三高地と赤坂山の敵陣地に叩き込んだ。が、ロシア軍は、日本軍の砲撃がおさまるとすぐ息を吹き返して、重砲射撃を活発にした。 日本軍歩兵は、あらゆる方法で進んだ。村上政路という大佐の率いる歩兵第二十八連隊のうち五個中隊の北海道兵は、ある地点から別な地点に移動するため一人ずつ匍匐ほふく
して進んだ。これをロシア軍砲火が執拗にとらえ、千人のうち、安全に目的地へ移動出来たのは百五、六十人にすぎなかった。彼らは戦闘したのではなく、ただ移動しただけで殺された。一発の銃弾も撃てずじまいであった。 |