ともあれ、第七師団と第一師団の一部は、攻城砲の支援のもとに、二〇三高地を攻めたてた。日本軍の砲弾は文字どおり山容を変え、その硝煙の中を突撃部隊はその砲撃の遏
む最後の一弾に膚接ふせつ するようにして前進し、全滅し、あるいは半数以上を失って敗退した。 「旅順要塞は、難攻不落の要塞として、ジブラルタルをのぞけば古今に比類のないものであった」 と、このとき乃木軍に従軍した米国の新聞記者スタンレー・ウォッシュバンが、その著
「乃木」 に書いている。ウォッシュバンは乃木を 「わが父」 と呼ぶほどにそのストイックな武人的性格を尊敬し、その尊敬は生涯変わらなかった。ウォッシュバンの
「乃木」 は、乃木という人間が、人間としてある主題で統一されたすぐれた傑作であることについて激賞するのであるが、その戦略的才能については、その著の主題上、意識的に避け、文中、何度も、 ──
作戦について語ることは本書の目的ではない。 という意味のことを繰り返している。もっともわずかに作戦にふれた点があるが、必ずしも正確ではない。 たとえば、 「乃木は、本国参謀本部の立案を実行する、いわば道具にすぎなかった」 とあるが、半面においてその通りであるにしても、乃木に与えられた作戦実施の自由は自由そのものであり、東京の参謀本部の方が頭をかかえて遠慮をしていたくらいであった。 さらに、ウォッシュバンはおう。 「
(乃木は) 部下の師団、旅団、連隊が、露軍の砲かをあびてさながら日光の下に消ゆるもやのように相次いで消えてゆくのを視守った。・・・・・この計画は将軍みずからの計画ではない、将軍はただその責任を負うたのだ」 とある。暗あん
に伊地知参謀長の責任であることをほのめかしているが、ウォッシュバンもこのあたりの叙述は苦しかったであろう。 右は、目黒真澄訳の 「乃木」 から抜粋ばっすい
している。この書物には訳者のあとがきかある。そこに、訳者がウォッシュバンの人柄について、一戸いちのへ
大将 (旅順攻撃当時は少将) に質問し、次のような答えを得ている。 「ウォッシュバンという男は、当時二十七、八歳の愉快な青年であった。非常に乃木さんを崇拝したばかりでない、Father
Nogi と呼んで、父の如くに思っていたようだ」 一戸兵衛ひょうえ
は、この攻城中、旅団長であったが、乃木の作戦には内心批判的であった。 しかしのち乃木との接触が深くなるにつれてその人間的魅力に惹かれた。ただ、国家が命ずる義務として旅順攻略戦に参加せしめられた日本の兵卒たちにとっては、この詩的魅力に富んだ軍司令官を戴いたことは、最大の不幸であったであろう。 二〇三高地を守るロシア人は、日本人の執拗しつよう
かつ信ずべからざる勇敢さに、精神的動揺の振幅を少しずつ大きくして行った。たとえばある部隊はほとんど全員がたおれたが数人がなお狂ったように駈け登ることをやめなかった。彼らは背に石油カンを担いでいた。最後に生き残った兵が、敵の掩蓋えんがい
にとりつき、石油をぶちまけ、その炎の中で死んだ。 「掩蓋は燃えたるも、敵はなおとどまりすこぶる頑強に抵抗したり」 と、報告にある。 |