戦況は、激闘といったふうの、その程度の形容で間に合うようなものではなかった。 たとえば新たに兵力の補充を受けた香月中佐の指揮する後備歩兵第十五連隊
(主として群馬県の兵) が担当したのは、二〇三高地そのものではなく、赤坂山 (日本側の呼称) であった。 二〇三高地のロシア軍陣地は、その両隣の高地と連繋しあっている。両隣とは、赤坂山と海鼠山であった。香月の連隊は、他の友軍とともにこの赤坂山に向かった。瀬の前夜。香月は三十人の特別作業兵を選び、彼らを出発させた。突撃路を開かせるためであった。山麓に張り巡らされた鉄条網の一部を剪
り、折り曲げ、道路をつくり、翌夜に予定されている突撃をスムーズに運ばせるためであった。 その作業の困難さは、どうであろう。なにしろ、旅順攻撃の初期には鉄条網は二重であったが、日本軍の攻撃路が一定してくるにつれてそういう部分だけは三重にされていた。さらにそのむこうには鹿柴がびっしり植え込まれている。そのむこうがロシア歩兵の壕で、その背後に、巨大な殺人装置である砲塁がある。 砲塁からは、間断」なく、サーチライトが山麓を掃きつづけている。風かなにかの拍子に日本兵の死体の衣服でも動く事があれば、砲弾と機関銃弾がしに一点に集中した。銃撃によってそのあたりの死体が踊り始めると、いよいよ銃砲弾がはげしくなる。 特別作業班は、虫が這うようにして進み、サーチライトがやってくると、死体の真似をする。というより、最初から死体の群れに混じっていて、光芒こうぼう
がすぎた瞬間、進むのである。そのようにして鉄条網に接近し、作業にとりかっかたのだが、ロシア側にはこの様子がよくわかっていた。 「やらせておけ」 と、この夜、電話で戦況報告を受けたコンドラチェンコ少将は言った。 「日本人ヤポンスキー
は、自分で自分の地獄の道路をつくっているのだ」 ロマン・イシドーロウィッチ・コンドラチェンコは、東部シベリア狙撃兵第七師団長ではあるが、この旅順要塞の防御作戦計画をこれほど精緻せいち
に仕上げ、かつそれをダイナミックに推進させた中心的な人物であった。ステッセルの功績は、その八割までコンドラチェンコが負っているといわれ、事実そのとおりであった。 「ロシアにおける最良の軍人」 といわれたが、この旅順の局面下では日露双方における最良の軍人であるかも知れなかった。彼は作戦能力が卓越しているだけでなく、その勇猛さと人格的魅力において、旅順の守備兵の尊敬を一身に集めていた。乃木希典の不幸は、こういう敵をもってしまったことであろう。 「日本軍が自分で作った突撃路へ大量にやって来る。ロシア軍としては機関銃の照準をそこに合わせて、ただ引き金を引きつづけていればよい」 と、コンドラチェンコは、この地区司令官であるトレチャコフ大佐に言った。
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