〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part V-[』 〜 〜
── 坂 の 上 の 雲 ──
(五)
 

2015/04/01 (水) 

二 〇 三 高 地 (十二)

日本軍は二〇三高地を以って、
「難攻不落」
とし、まるで鉄壁のような印象を受けていたが、それを守るロシア軍にとっては、物量と物理的力だけを頼りに戦っているわけではなかった。トレチャコフ大佐という、有能な指揮官が存在したことと、その指揮のもとに三千人のロシア兵がきわめて機能的に活動したことと、その勇敢さによるところが多かった。
日本軍の人的損害は、三十分単位でケタがはねあがるというほどに増大したが、ロシア側も無傷ではなかった。とくに大佐が自分の歩兵部隊に対して危険な防戦と攻撃を繰り返させたため、兵員の消耗は小さくなかった。
旅順市街に司令部を置くステッセルは、
「二〇三高地こそ攻防の要である」
と見て、この方面に対する兵員の補充は惜しまなかった。補充は当然、ステッセルが握っている総予備隊から派遣される。その総予備隊も次第に減ってきたため、彼は思い切った手段をとった。
旅順市街の病院で勤務している衛生兵や鉄道兵などに銃を取らせることにしたのである。この人数は案外に多く、ゆうに一個大隊 (四個中隊) を編成することが出来た。
「衛生兵でも、手榴弾ぐらい投げられるはずだ」
と、ステッセルは言った。
衛生兵が戦線へ出たあとは、将校の夫人や娘たちが、速成教育を受けて病院の勤務に就いた。
さらにステッセルは港内ですわり込んでいる艦隊に対し、ほとんど脅迫的な表現で兵員をもっと供給せよと要請した。いまひとつ、ステッセルは入院中の傷病兵に対しても、銃を手にし得る者に対して強制的に退院させ、原隊に復帰させた。
── 旅順要塞はびくともしていない。
と、日本の満州軍総司令部や東京の大本営をして焦燥させているこの要塞も、内部的には悠々たる防戦を続けているのではなかった。
ただステッセルにとって心強かったのは、全要塞がなお依然として健康そのものの機能を発揮していることであった。彼のとって困るのは、日本軍が二〇三高地ただ一ヶ所に強い関心を示し始めたことなのである。ただ一点に日本軍の大きな圧力がかかることが、一般的に言っても要塞防御作戦上、ひどく困難な状況になる。他の堡塁、砲塁の兵力をこの二〇三高地に くわけにゆかず、どうしても局部的な兵力不足になることはまぬかれにくい。そういう意味で、衛生兵にまで銃を持たせて二〇三高地へ送ったのは、決して防御作戦そのものに敗色がきざしなじめたということではなかったのである。
「ノギはどうやら気分を変えたようですな」
という幕僚もあったが、そうではなく陽動作戦かも知れない、その証拠に他の砲塁も日本軍の攻撃をうけている、という幕僚もあった。いずれにせよ、攻撃側はその主攻撃点を自由に選ぶことが出来るが、防御側はあらゆる方面に対してひと しく手当てをしておかねばならないという不自由さがあった。

『坂の上の雲』 著:司馬遼太郎 ヨリ
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