ここに、 ──
乃木がもし、自分を拒んだ場合、どうなるか。 という重大な懸念
が、児玉にはある。なにしろ、第三軍の指揮権を一時おれに呉れてしまえ、という軍事史上、類のない暴挙を児玉はやろうとしているのである。 このためにも、大山巌の乃木に対する秘密命令が必要であった。 ──
指揮権を児玉に渡すように。 という、そういう内容のものである 。まずくゆけば、乃木は恥じて自殺するかも知れない。 大山巌は、すべて了解した。彼はこの時日露戦争において彼が出したあらゆる命令の中で、唯一の秘密命令を出すのである。彼はさすがに沈鬱な表情で、紙片に対した。やがて筆をとり、数行の文字を書いた。 「予に代り、児玉大将を差遣さけん
す。児玉大将のいうところは、予の言うところと心得べし」 という旨のもので、要するに児玉は総参謀長として行くのではなく、代理ながら総司令官として行くのである。この一札いっさつ
がある限り、軍隊における統帥秩序の紊乱びんらん
ということは、形式上、避けられるであろう。さらに乃木もこの一札がいわば徳川時代のお墨付のようなもので、平伏せざるを得ない。 「しかし児玉さん、これをお使いなさるか」 と、大山は言った。 「そこは心得ています。十中八九は、使わずに済むと思います」 と言ったのは、使えば乃木の立場は悲惨であり、出来れば児玉は胸襟きょうきん
を開いて乃木と語り、むしろ乃木の口から、 ── 児玉たのむ、何日か、目鼻のつくまでわしの代行をしてくれ。 と、言わせることであった。乃木がそのように出れば、この問題は、法的にも情誼的じょうぎてき
にも、いっさいしこり・・・ を残すことなくゆくのである。 「それで児玉さんは二〇三高地をやりなさるのですな」 「各師団の攻撃部署やら砲兵陣地たらを大転換させねばなりませんから、これは大ごとになりますが、一気呵成いっきかせい
にそれをやってしまいたいと思います」 児玉は、部屋に戻り、松川敏胤を呼び、命令を口述した。松川は十センチほろに減ったエンピツを動かして、それを文章にした。児玉はそれを持って再び大山のもとに行き、承認を乞うた。大山の名においての、乃木軍に対する訓令であった。大山は一読し、サインをした。 その第一項は、 「二〇三高地に関する戦況不明なるは、指揮統一のよろしきを得ざること多きに帰せざるべからず」 という、乃木に対するすさまじい叱責しっせき
の言葉から始まっている。あと二カ条あるが、いずれにせよ、ただ一人の無能の軍人が、日本国家の運命を危殆きたい
におとし入れているという点からいえば、この訓令は大山にとっては叱責というよりも、悲鳴に近いものであった。この訓令は、児玉が出発した後に発せられることになった。
|