児玉は、大山の部屋へ行こうとしている。 この時期、戦史の分類で言えば、 「沙河の対陣」 といわれている時期で、大規模な歩兵戦闘はないにせよ、毎日、彼我とも、砲兵陣地はいそがしく、早暁から日没まで砲声が連続した。そいういう時期であった。 この時期にも、段芝貴は陣中見舞のために大山を訪問している。 「閣下、ご日常はいかがでございますか」 と、段芝貴が聞くと、大山は例によって丁寧に一礼し、 「総司令官というのはわりあい暇なものでございますから、田舎を散歩いたします」 と、言った。田舎というのは、郊外という意味であろう。事実、大山はよく出かけた。 しかし散歩の途中で弾が飛んでくればどうするのであろう、と段芝貴は思ったが、大山はかまわずにつづけた。 「そしてもっぱら、シナの白菜というものの研究を致しております。あの白菜というものは大した野菜でごわして、滋養も盛んでごわすし使い道も多うございます。とくに漬け物にすればよろしゅうごわすが、しかしその技術がなかなかむずかしゅうごわして・・・・」 そういう調子であった。旅順の惨状も、正面のクロパトキンに対する警戒も、どこ吹く風といった表情で、ニコニコしながら語った。 (がま坊
は、いるだろうか) 児玉は総司令官室への土間を歩いた。児玉は、大山をかげでがま坊・・・
などと言っていながら、彼の大山への尊敬というのは異常なほどで、さらに総司令官の存在に対する絶対的尊重という点でも、みごとなぐらいであった。 ドアをたたくと、大山はいた。児玉は、彼自身陸軍大将という極官にあり、さらに大山には永年仕えていてその親密の度合いは兄以上であるのに、部屋に入ると若い少尉のように初々ういうい
しい不動の姿勢をとり、一礼した。 「ああ、児玉サン、クロパトが動き始めましたか」 と、大山はイスを与えながら言った。クロパトキンのことをクロバ・
トと大山はいつも言う。児玉はおかしかった。クロバトが動きだせば、旅順へ行くどころか、今からまた屍山血河しざんけつが
の大激戦を演じねばならない。 「はい、ここ十日以内は大丈夫かと思います」 「それで、旅順へ行こうとなさるのですな」 と言ったから、児玉は驚いた。彼の企図を、大山はその天才的なほどに鋭い直感でとらえていたのである。本来の大山なら、ここで、決して先まわりして知ったかぶりをしないはずであった。この日、さすが調子が違っていたのは、旅順の乃木軍の様子に、大山もよほど深刻だったであろう。 「旅順へ参ります。あとを、恐縮でありますが、よろしくお願い致します」 と、児玉は言った。
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