ともあれ、大佐松川敏胤にすれば、児玉に行ってもらいたくなかった。このため、軍隊の秩序原理から説いて反対してのである。 「まちがっちょる、松川。
──」 と、松川の話の尻をうばって、児玉はどなりつけた。 「軍隊の命令系統の秩序の大切であることは、貴官の説明を待たなくてもわかっちょる。しかし秩序を守って日本を亡ぼしてもよい、というのか。──
乃木は今のままでは」 と言いかけて、黙った。日本を潰
してしまうだろう、ということを叫びたかったのだが、乃木への友情が、その言葉を呑み込ませた。児玉の恐怖は、その一事であった。 なるほど道理は松川にある。 「陸軍大将、満州軍総参謀長」 といっても、児玉は、総司令官大山巌のスタッフにすぎないのである。乃木希典は、統帥の源泉である天皇から第三軍に対する統帥権の執行をゆだねられた軍司令官であった。その乃木のところへ児玉が出かけて行って乃木の命令権を停止もしくは制限して児玉が第三軍を好きなように引き廻すとすれば、どうであろう。軍隊という秩序体は、崩潰するのではないか。 たとえば、こうであろう。 東京の大本営から長岡外史がやって来て、 「大山さん、ちょっとどいてくれ、wしが指揮をとる」 というようなものであった。 が、旅順の乃木を今のままにしておいては日本は敗ま
ける。というほとんど確実な予想のもとに、児玉は、 ── このさい、非常の暴を行うのも、やむを得ない。 という立場をとった。 むずかしいところであった。命令系統の紊乱びんらん
というのは、ある意味では軍隊における最大の犯罪行為といってよかった。 ── 軍法会議にでなんでもかけい。 という肚はら
が、児玉にある。 「他の人をおやりになっては」 と言う松川の意見についても、児玉は、 「わしでなきゃ、ならんのじゃ」 と、言い張った。 これは多分に政治的な事情による。もし児玉が長州人でなく、薩摩藩か、非薩長閥に属しているとすればこの暴・
は、実行不可能であった。乃木がそれを受け付けないし、もし暴・
を行ったところで、あとに重大な人間関係のシコリが残るに違いなかったが、児玉も乃木も長州人同士で、強烈な郷党閥のなかにいる。その上、両人には維新以後のながい親交の歴史があり、たがいが互いを知りぬいていて、少々のことがあっても乃木の神経に傷を残すようなことはあり得ない。と児玉源太郎は思っている。 「わし以外に、乃木のもとに行く者はない。たとえば松川、貴官が行けば乃木に噛み殺されるぞ」 「では、閣下」 と、松川は生真面目な表情で言った。 「申されること、止むを得ませぬから、行かれる以上は総司令官
(大山巌) 閣下のご自筆の命令書を懐中にして南下されることを、おすすめ申上げます」 それならば児玉の立場が、苦しいながらも法理的にすじが通るであろう。 |