〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part V-[』 〜 〜
── 坂 の 上 の 雲 ──
(五)
 

2015/03/28 (土) 

二 〇 三 高 地 (三)

「松川君、君はまた叱るかもしれんが」
と言った児玉の表情にはいつもの快活な弾みがまったくない。児玉は、手の甲で鼻の頭をこすった。しきりにこするため、やがて赤くなった。少年が、なにか悪戯いたずら を思いついたような仕草のようでもある。
「どういうことでしょう」
松川は、用心深く聞いた。すると児玉は急に怒りだして、
「どうもこうもあるもんか。わしはこれから旅順へ行く。旅順があの現状じゃ、今に全満州軍が崩れる」
「わかりきったことです」
とまでは言わなかったが、松川はそんな表情をし、うなずいた。が、松川は児玉が旅順へ行くことには反対であった。さきに児玉がこの前線を留守にして旅順へ督戦のために出かけてしまったあと、沙河戦が起こった。沙河戦の初動期の作戦指導が円滑を欠いたのは、児玉が旅順ボケの頭で帰って来たからである。松川はかつてそれを児玉に指摘し、
「総参謀長が、司令部を留守されるということは、いかに他に重大な事があるにせよ、統帥上、ゆゆしきことです」
と、直言したことがある。今も、正面にクロパトキンの大軍がいる。その北方戦線を捨てて南方戦線である旅順攻撃の督戦に行くなどは、軍隊統帥の原則として許されるべきことではない。松川はそう思い、そう言った。元来、松川は作戦にためなら、上官の神経など頓着のない男だった。
「閣下、閣下はご自分の前回の過ちを繰り返されるおつもりですか」
「なに」
児玉は、小さな肩をそびやかした、松川はかまわず、
「前回同様、督戦に行かれるというなら、全く無意味です。乃木軍司令部にご不満がおありなら、乃木軍の参謀副長 (大庭二郎中佐) でもお呼びになればよいではありませんか」
「そんな悠長ことをしちょられるか。今のままでは、乃木が両手にかかえている兵隊はみな死んでしまうぞ」
「かといって、総参謀長閣下が、定位置を離れてよい理由にはなりません」
「前回は督戦だ。今度は督戦じゃない」
「では、なんでしょう」
「乃木の代りに第三軍を指揮しに行くのだ」
と児玉が言い出したから、松川は事の重大さに一瞬呆然とした。児玉のいうとおりなら、軍隊の生命ともいうべき命令系統の破壊行為であり。児玉は軍隊の秩序原理そのものを壊しにゆくことになるのではないか。

『坂の上の雲』 著:司馬遼太郎 ヨリ
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