児玉は屋内に入ると、会議室に戻らず、自室に入り、 「すぐ松川を呼んでくれ」
と頼んだ。 やがて、松川敏胤
が、痩せた体を運んで来て、児玉のデスクのむこうに立った。児玉は、かねて、 「おれには二人の文殊菩薩もんじゅぼさつ
がついている」 と言って、自分のスタッフである少将井口省吾と大佐松川敏胤を私ひそ
かに推賞したことがあるが、たしかに井口と松川はすぐれていた。ただその作戦個性には多少の相違があり、井口は慎重型で、やや消極的であり。松川は猛攻型で、積極的であった。児玉はこの両ふた
の型の上に載の っかっているのだが、この二人に言わせると、 「児玉閣下には、こまる」 というような気味もあった。献策しても、結局は児玉が自分の考えでやってしまうことが多いのである。彼ら二人は秀才であったが、児玉には天才性があり、ときに彼らの思考次元から一次元飛び上がってしまう、というところがあったかもしれない。 が、逆に児玉の方が一次元低いか、もしくは別の条件を加味するために二人の案とは別なものになってしまう。低い、と言う言い方は当らないかも知れないが、 「戦略に、政略が入ってはいけない」 という軍事学の原則を、児玉は平気で無視するのである。戦略戦術は、それのみを目的として純粋思考を行うべきであり、そういう意味で純度が高かるべきものだが、児玉はそうではなかった。 この点につき、もう少し言葉を補足すると、たとえばロシア国内で革命の気運が高まっている。日本の参謀本部が滞欧中の明石元二郎大佐に百万円の謀略費を与えてこの気運を煽動せんどう
させつつあるが、これは 「政略」 に属する。 野戦軍参謀長というものは、そういう 「政略」 をあてにして戦略を怠ったり、攻めるべきところを控えたりすることは、要するに戦略思考の純粋度が低いのである。 たとえばこの時期、松川敏胤大佐は、 「閣下、このように滞陣していても仕方がありません。今こそ攻撃を再開すべきです」 と、しきりに再度の野外決戦の必要を児玉に説いていたが、児玉はいっさい乗らず、 ──
まあ、考えておく。 と言うばかりであった。沙河戦は終わったが敵主力はなお前面で健在である。児玉大将はいったい何を考えているのか、松川敏胤には不可解であった。 一方、児玉の方は、山県有朋からの密電により、講和風が吹き始めていることを知っていたが
(ただしこのことは結局は山形の希望的観測であった) 、彼は松川にも洩らしていない。児玉にすれば、日本軍が充実したままの形で、講和に持ち込みたかったし、また講和こそこの戦争の最終目標であるため、それが実現するとすれば、無用の決戦を起こして、兵の命を奪いたくなかった。 児玉は、純粋に作戦家であるには、あまりに大きな、つまり一国の危機を背負うという別次元の政略的課題まで背負い込んでいる立場にあった。つまり日本そのものを、児玉は背負っていた。理由は、日本が小国の貧乏世帯であるせいであった。 |