〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part V-Z』 〜 〜
── 坂 の 上 の 雲 ──
(四)
 

2015/03/24 (火) 

旅 順 総 攻 撃 (二十二)

この時期、大山、児玉の総司令部は、遼陽からさらに北へ進んで煙台えんだい に置かれていた。
北方にクロパトキンの大野戦軍がいるが、互いににら みあったまま、双方ともはなばなしい戦闘を開始する意欲はなさそうであった。
ここ数日、児玉源太郎は、口を開けば、
「旅順は」
と言い、それ以外のことを言わない。満州における全日本軍の安危は、旅順の乃木軍が握っているような形勢になってきた。事実、旅順攻略の乃木軍の様子がこれ以上悪化すれば、日本の陸海軍作戦は総崩れになり、日本国そのものが滅びるであろう。
日本の存亡の鍵が、最も愚劣で最も頑迷な二人の頭脳に握られているというのが、この状況下での実情であった。
「うかうかすると、乃木はグルーシー将軍になる」
と、児玉はつぶやいたことがある。ナポレオンがウォーターローで、ウェリントンの率いる英普連合軍と戦ったとき、グルーシー将軍に別働軍を指揮させ、敵の一翼であるプロシャ軍を探させた。グルーシーをしてプロシャ軍を撃たしめるつもりであった。
グルーシーは愚直という以外に のない将軍で、彼の性格どおりの作戦を演じた。ナポレオンから命ぜられたプロシャ軍が、どこにいるのか分からず、行軍に行軍を続けているうちに、はるかウォーターローの方角にあたってすさまじい砲声が聞こえた。主力決戦が始まったのである。
グルーシーは、駈けつけるべきであった。幕僚たちも、そのように説き、ついには激昂する者さえあったが、グルーシーは終始、
「皇帝は私にプロシャ軍を探せと命ぜられた」
と言うほか返答せず、規定のように行動し続けた。そのうち、ウォーターローにおける主力決戦で、ナポレオンは敗れた。もしグルーシーが状況の変化に対し柔軟な頭脳と決断心を持っていたとすれば、そしてそれを実行し、ウォーターローへ駈けつけ、ウェリントンの英国軍を横撃したとすれば、ナポレオンの運命はあるいは変わっていたかもしれない。が、運命そのものから見はなされていたナポレオンには、彼のかつての有能な将軍たちは今は亡く、グルーシーのような飾り物の軍人に、作戦上のこれほど重要な一翼を背負わさざるを得なかったのである。グルーシーは、ナポレオン権力そのものを崩壊させた。
旅順の乃木は、満州における日本軍の中での、いわば別働軍であった。グルーシーは敵のプロシア軍を見つけることが出来なかったばかりか、自分の作戦的機能を自分で頑固に規定しつづけた。乃木も、旅順要塞に対する正面攻撃という奇妙な方針を、ただひたすらにまもりつづけた。グルーシーはナポレオン作戦に機能化出来なかった者の、その部下を殺さずにすんだが、乃木は日露戦争における兵員消耗を一手で引き受けているかのようであり、その意味から言えば頑愚の罪は、グルーシー以上かも知れなかった。

『坂の上の雲』 著:司馬遼太郎 ヨリ
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