〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part V-Z』 〜 〜
── 坂 の 上 の 雲 ──
(四)
 

2015/03/24 (火) 

旅 順 総 攻 撃 (二十一)

ともあれ、この白襷隊は、旅順攻略戦の象徴的存在になった。
「司令部の無策が、無意味に兵を殺している貴公はどういうつもりか知らんが、貴公が殺しているのは日本人だぞ」
と、口にすべからざる極端な表現で、この後児玉源太郎が乃木軍司令部の参謀長伊地知幸介をどなりつけたのは、 一例で言えばこの白襷隊突撃の敢行もそうであった。児玉は乃木をどなりたかった。が、乃木の統率者としての権威を傷つけることをおそれて伊地知を叱ったのである。
「中村が、なんとかしてくれるじゃろう」
と、乃木は大真面目でこの突撃に期待していた。ところがこの隊は、午後十時ごろには鉄条網のある斜面でほとんどたお れるか、負傷していた。指揮官の中村覚少将も重傷を負い、渡辺大佐がこれに代った。六十六人の将校が死傷し、ついに各隊指揮は下級将校か下士官がとる始末であった。午前一時ごろには戦場には負傷者と死体がころがっているだけの光景になり、稀に生きている日本兵も組織的戦闘が出来ないため身動きがとれなくなったいた。
少将中村覚は、
── 退却の文字を抹殺せよ。
と自分の旅団に訓示しただけに、みずから退却することは出来なかった。ただ彼はこの戦闘の中ごろには重傷を負って指揮権を渡辺大佐に代行させている。渡辺大佐は、退却に決した。彼は五体満足な兵をやっと探し出し、乃木軍司令部に対し、どうすべきかの命令を求めた。
軍司令部のある柳樹房までは、遠かった。やがて乃木はこの報告を受けたが、その表情にはありありと失望の色があった。
「いかんか」
乃木は、もはや手がないという気持であった。が、処置を急ぐ必要があった。夜が明け、陽があの斜面を明るくすれば、ころがっている負傷兵ももなロシア兵の銃剣で突き殺されてしまうであろう。
「では、退却せよ」
と、乃木は命じた。
この白襷隊の戦法はいわば奇襲であったが、他の各師団が行った組織的な攻撃も、ことごとく失敗し、大隊や中隊がいたるところで全滅同然の状況になった。
乃木軍司令部が最初 「不要である」 として断った二十八サンチ榴弾砲は大きな威力を発揮し、攻城砲とともに活躍して、たとえば東鶏冠山北砲台や、二竜山、松樹山の外側の壁をぶち破ったが、しかしそれでもこれらの堡塁は活き活きと活動した。
第十一師団などはそれらの外観の変形した堡塁に向かい、何度も突撃隊を繰り出した。
が、最新式要塞というものは、日本人には理解し難いほどに堅牢複雑な構造をもっていた。砲台の前には、地雷原があり、鉄条網があり、その周りに機関銃と速射砲がある。日本軍は一隊全滅すれば、いあま一隊が屍をこえて突撃し、まれに砲台の胸壁に攀じ登る者があっても、登った向こうにまた側防機関銃があり、そこを走り抜けてさらに突入したところでまた咽喉部いんこうぶ の防御があるといった具合で、人力をもってはどうすることも出来なかった。

『坂の上の雲』 著:司馬遼太郎 ヨリ
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