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十三日 (日本暦二十六日) を警戒せよ。 というスッテセルの警告は、その当日、真実になってあらわれた。 要塞の各堡塁からの報告によると、二十五日午前十一時ごろから午後四時ごろまで、鞍子嶺方面から王家甸子
付近にかけ、車輛を有する乃木軍部隊が、陸続として移動しているのがロシア側陣地から望見できた。おそらく砲兵の弾列だんれつ
(砲弾を運んだりする部隊) であろう。砲兵の弾列の動きが活発になるというのは、大攻勢が始まる予兆であった。 「それにしても、乃木軍は攻撃意図を隠すという戦術教科書を学んでいないのか」 とスッテセルは思った。ロシア軍はこういう場合、きわめて神経質な秘匿ひとく
作戦をとるのである。 ステッセルは二十五日正午、諸隊に対して戦備をととのえしめるべく命令を発した。 一方、スッテセル麾下の勇将とされるコンドラチェンコ少将は、鳩湾方面の偵察にあたっていたマノフスキーという大尉から、 ──
コノ方面ニオイテ敵ノ運動、ニワカニ活気ヲ呈シツツアリ。 よいう急報を受け、海兵第十中隊を派遣するといった処置をとった。これはロシア軍の警戒措置の一例にすぎず、要塞の全軍がこの日、ある方面では増強されたり、移動したりして、きわめて活発であった。 で、結局二十六日、予定通りノギ攻勢が始まった。 ロシア軍の砲火は天地を裂き、それに対して日本軍の攻城砲、二十八サンチ榴弾砲りゅうだんほう
、野砲、山砲にいたるまであらゆる砲が、旅順の山々にむかって火ぶたを切った。 乃木軍の前進が始まった。 そのなかで、乃木が、 ── この戦いの成否は、諸君の善戦にかかっている。 と激励した中村覚少将指揮の白襷隊三千人は日没前後動きだした。 彼らが結集したのはクロパトキン砲台の北方であることは、すでに述べた。別な地理説明で言えば、水師営の東北高地の脚部である。高地の影になって、ロシア側からは見えない。 彼ら白襷隊が動き始めたのは、午後五時である。水師営の東に小さな川がある。それに沿って前進し、やがて敵の探照燈に発見され、すさまじいばかりの砲弾の集中を受けた。生きている者はなお進み、午後八時四十分、白兵突撃をすべく全軍が着剣した。 さしあたっての目標は、松樹山の補助砲台を奪うことであった。各隊躍進し、ようやく松樹山西方の鉄条網の線に到達した時、敵の砲火と機関銃火はすさまじく、とくに側面からの砲火が白襷隊の生命をかなり奪った。ロシア側の防御は、日本の乃木の攻撃法のように固定的でなく、意外な方面に新砲台が出来ていることが多かった。この場合、白襷隊は、死をもってその知識を得た。 鉄条網のむこうに機関銃をそなえた敵の塹壕ざんごう
がある。さらにそのむこうに砲台がある。白襷隊は、探照燈で照らされつつ、鉄条網の前でただよっている。 |