十一月に入ると、戦況は乃木軍にとっていよいよ悪化した。 乃木軍司令部は相変らず、 「二〇三高地を攻撃の主目標にしてほしい」 という海軍の原案を否定し続けていたが、しかし東京の大本営の希望があまりにやかましいため、九月十九日、第一師団
(東京) を動かして、わずかの兵力をもってこれを申し訳程度につつき、その固さを知って退却した。乃木軍に軍略能力があるなら、もう一押しすべきであった。なぜならこの時期二〇三高地には、山腹に散兵壕が存在する程度の、その程度の薄弱な防備だったのである。このためステッセルは、この病患部に気づいた。 「二〇三高地こそ、わが大要塞の弱点ではないか」 として、大急ぎで要塞化に取り掛かったのである。乃木軍は中途半端な刺戟をロシアに与えてロシア人に智恵をつけたようなものであった。乃木軍司令部がやった無数の失敗の中で最大のものであったであろう。 一方、乃木軍の方は損害が累積しつつあるため、 「第七師団か第八師団をよこそてくれ」 と、火がついたように要求していたことはすでに述べた。この両師団は、日本が本国に残していた最後の予備軍であった。 「乃木軍司令部に渡せば、せっかくの新鋭師団も無益に殺されてしまうだけだ」 ということで、東京の大本営でも反対が多かった。 結局、最初に動員した第八師団は、遼陽方面にやることになった。このため、日本は第七師団一つだけが予備軍になった。 乃木軍はさらに、 「その第七師団をくれ」 と、やかましく言って来た。旅順の敵壕の埋め草にさせてしまうだけだ、と大本営ではやりたくなかった。今までの乃木式によれば裸突撃をさせてたった一回の突撃で一万六千とか、五千といった数字で兵員を死傷させている。第七師団はたった一回の突撃で消滅するであろう。 が、大本営としては、バルチック艦隊の回航という一大強迫条件があるため、一日も早く旅順をおとさねばならず、結局としてはこの師団を旅順に送らざるを得なかった。 この師団は北海道の兵で構成され、旭川に司令部を持ち、連隊本部を札幌、函館、釧路、旭川にそれぞれ持っている。これが、日本陸軍がその本国に控置
していた最後の師団であった。 この師団は、乃木軍の系列に入った。 「この第七師団で二〇三高地攻撃をやろう」 というのが、乃木軍司令部の考えであった。同司令部は驚くべきことに、二〇三高地が以前と一変して大要塞になっていることを知らなかった。ろくに偵察もしていなかったのである。情報の過少な司令部のもとでその鉄壁に向かわされる第七師団ほど不幸な師団はなかった。 |